2023年12月13日

南朝 うどん

例えば京都に行くと、「誠」の字の下に一番隊から
十番隊までの組長の名前を書いた「新選組T シャツ」
を売っていたりする。
しかし吉野で 「菊の御紋」の下に初代から四代までの
南朝天皇の名前が書かれたTシャツなど、南朝グッズを
見たことがない。
しかしこの うどんが唯一、南朝を名乗ったグッズでは
ないだろうか。よしのやさんの「南朝うどん」だ。
吉野本葛が練り込んであり、口当たりが滑らかで喉越し
が良いうどんだ。
吉野葛が練り込んであるから「吉野=南朝」という
単なる図式ではなく、麺の コシが有って歯ごたえの有る
麺が南朝の存続感を連想するからというネーミングでは
ないかと、想像する。
延元元年(1336)から元中九年・明徳三年(1392)の
南朝期、そしてその後の文明十一年(1479)までの後南朝の
通算143年の長き
に渡って足利賊と北朝に対して吉野に
天皇家が存続したのは、まさにコシの強さと気骨の
歯ごたえであろう。

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2023年12月06日

荒神の里 笠そば

初瀬 長谷寺に参詣して後醍醐天皇皇子の
宗良親王の二度目の出家に思いを巡らした後、
そこから約7〜8Kmの御蕎麦屋さんに寄った。
笠山三宝荒神の向かい側に有ることから、「荒神の
里 笠そば(奈良県桜井市笠)」という名前のお店だ。
途中の数百mは対向車とすれ違い困難な細い道も
有るが、ほとんど走りやすい山間道路を走って行く。
ナビ入力しているし、所々に看板が出ているので
安心だが、無ければこの先に蕎麦屋さんが有るのか
心配になるような山の中だ。すると突然の如く20台位
が既に駐車した広い駐車場と平屋の広い建物が現れる。
内部は60人は座れるような大衆食堂風で、売店でお金
を払うと番号の付いたレシートをくれる。番号を
呼ばれたら手を挙げれば席まで持ってきてくれる。
妻が注文したのは「ネギ蕎麦」で、私は「ざる」。
「ネギ蕎麦」は蕎麦が見えないほどネギが掛かって
おり、生卵だけが顔を出している。つゆにワサビを
入れて溶いてから掛けて食べるとのこと。結構な
衝撃に妻とシェアして食べたが、むろん蕎麦本体の
味ではないが、ネギ臭くもなく卵とつゆでマイルドな
味になって本当に美味しかった。その美味しさも
見かけ並みに衝撃的だ。ざる蕎麦はつゆを付けずに
頂くと、蕎麦本来の風味がわかる。少し歯ごたえが
有る美味しい蕎麦だ。
ここは桜井市笠という場所だが、国の農地開発事業で
70ヘクタールの蕎麦栽培を平成4年から行っており、
収穫した蕎麦は市場流通せずにこのお蕎麦屋さんに
特化して自家消費しているという。このお蕎麦屋さん
の近くの山中は標高400〜500mと蕎麦作りに適した
気候風土そして寒暖差のある蕎麦畑が広がっている
ようだ。
御蕎麦屋さんの横には農産物直売所も併設しており、
そばシフォンケーキを購入してきたが、こちらも
美味かった。また寄ってみたいお蕎麦屋さんだ。

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2023年12月04日

宗良親王の足跡を求めて初瀬長谷寺へ

初瀬の長谷寺の登廊にて私が手にしているのは、
後醍醐天皇皇子である宗良親王が第三代南朝天皇の
長慶天皇に弘和元年(1381)に奏覧された、南朝の
人々による歌が編纂された『新葉和歌集』の現代版
(明治44年:1911年発行)。

宗良親王は二度出家している。応長元年(1311)に
生まれた親王は正中二年(1325)に天台宗妙法院に
入室し出家し、尊澄法親王と名乗った。ただし
新田義貞らの武功により鎌倉幕府を倒して建武政権が成立、
やがて足利賊との対立で後醍醐天皇が京から吉野へ
脱出した頃に尊澄法親王は伊勢へ脱出して還俗して、
宗良親王と名乗った。
その宗良親王が再度出家したのは信州大河原から吉野を
暫し訪問後、再度 信州への途上において初瀬の長谷寺
においてだという。天授三年(1377)十一月の事である。
『新葉和歌集』には添付写真のように
「初瀬にて世を逃れ侍りしことを(中略)
君になど我世初瀬の鐘の音の(後略)」
と歌っている。君とは長慶天皇のことであり、長慶天皇
にも一言も漏らさずに吉野朝行宮を立ち去った様子が
歌われている。宗良親王の二度目の出家の背景には、
親王の子である王子との死別で菩提を弔うためという
理由が考えられているが、その王子が誰かは不明の
ようだ(参考;川田順氏著「宗良親王」昭和13年初版)。

今回の初瀬・長谷寺参詣は、宗良親王が出家に寄った
時に見たであろう景色を見たかったからである。
結論から云えば、建造物に関しては殆どが江戸時代以降の
建築物ゆえに、同風景を見たり同じ場所を歩いたりは
困難であった。登廊は上中下の部分に構成されているが、
中下廊は明治27(1894)年の再建だが、上部は長暦3(
1039)年の99間の登廊の一部の可能性がある、、、
(お寺で尋ねたが不明であった)。ただ仏像に関しては
平安時代や鎌倉時代の造立像が安座されていることから、
宗良親王が合掌した仏像かもしれない。御本尊は室町末期
(天文7:1538)年の再造であるが、他の十一面観音像
は鎌倉時代、不動明王立像に地蔵菩薩立像は平安時代の
作である。

ともあれ建物は宗良親王の時代より新しいと思われても、
親王が出家された時代にも安座していた仏像を参詣できた
ことは、少しだが宗良親王をより近くで理解を深めた
ような気がした。

今月03日(日)、奈良県桜井市初瀬の長谷寺にて。

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2023年11月20日

「李花集」入手

後醍醐天皇の皇子である武人にして歌人の、
宗良親王の家集を入手した。
添付写真に写っている『新葉和歌集』は吉野朝の
公家らの歌を編纂したものであるが、『李花集』は
宗良親王に特化した和歌が自身によって、編纂
されている。こちらは 南朝年号の天授3(北朝年号の
永和3;1377)年にまとめられている。吉野から
信濃大河原へ出立の頃にまとめられたと思われる。
一方、『新葉和歌集』は南朝年号の弘和元年(北朝
年号の永徳元年;1381年)に長慶天皇に奏進されている。

この『李花集』の印刷出版物は現在 発売されていない
ので、古本に頼るしかない。
入手したのは昭和18(1943)年に出た岩波文庫の第二刷
である。ちなみに初版は昭和16(1941)年である。

まえがきに相当する解題に書かれた校訂者である松田武夫氏
の文が、時代精神を表している、、、
「われわれは、この御集を通して、宗良親王の御心持を
拝し、感奮興起するところがなければならない」
宗良親王の歌にある、、、
「君がため世のため何か惜しからむすててかひある
命なりせば」
松田氏の解題にある「感奮興起」という言葉は、宗良親王
の上記の歌にリンクさせることで、君(天皇)に命を
捧げるという戦中の興国思想を鼓舞している。
まさに歌が歪曲され悪用された事例だろう。
吉野朝(南朝)の皇族や忠臣が、戦前戦中にいかに利用
されたかということである。それは敗戦による価値観の
崩壊を招き、それ以降は宗良親王の歌集が出版されていない
ことからも世の激変を思うことができる。
しかし冷静に南朝ファンとしての立場から見ると、
この歌集に収められた歌は吉野や京への望郷やもどかしい
焦燥が多く感じられ、もしこの歌集全てが太平洋戦争の
戦場に向かう若者全てを勇ましく鼓舞する目的で昭和16年
に出版されたのなら、敏感にはくじけそうな心を
読み取ったかもしれない。あるいは吉野朝の皇子も
自分と一緒だと、同じ意識になったのだろうか、それは
分からない。少なくとも『李花集』の宗良親王に近づくために
私は今回、入手してみた。

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2023年11月06日

懐良親王足跡探訪へ

今月3〜5日、福岡県、佐賀県における
後醍醐天皇第六皇子の懐良親王の足跡探訪を
おこなってきた。

探訪地は、、、太宰府天満宮、太宰府政庁跡、高良大社、
毘沙門嶽城跡、千光寺(伝・懐良親王御墓)、五万騎塚、
宮ノ陣神社、大保原合戦高卒塔婆、東妙寺。

「日本三大合戦」というと、関ヶ原、川中島、そして
大保原(大原、筑後川)合戦である。
関ヶ原と川中島は大河ドラマなど時代劇や映画でも
取り上げられるが、大保原合戦は殆ど上げられること
無く知名度が低い。

添付写真はその「大保原合戦」の戦死者を葬った
場所に立つ 高卒塔婆への入り口での写真。

今回は福岡空港で添付写真のレンタカーを借りて走った。
3月に熊本へ行ったときは新型(60型)プリウスだったが、
今回は 後期50型であった。しかし本当に燃費が良かった。
高速道(九州道・長崎道など)や一般道を燃費を意識せずに
走ったが、リッター当たり27.5Kmも走った。プリウスでは
20型並みの燃費の良さだ。

話は戻って「大保原(おおほばる)合戦」、、、
正平十四年(1359年)08月06日、菊池武光や新田一族を
主力とする懐良親王南朝軍4万が、少弐頼尚を主力とする
足利賊軍6万と、現在の小郡市を中心とした大保原で
ぶつかった。双方の死傷者は25000人、死者は南朝側で
1930余人、足利賊軍側で4000余人に達したという。
多くの戦死者を葬った塚があちこちにできたというが、
この高卒塔婆も多くの枯れ骨の出土した場所に立てられて
いる。
この合戦で懐良親王も三か所の深手を負ったというから、
本当に激戦だったのだろう。
この合戦を契機に足利賊軍の九州における勢力地盤は
没落し、かわって懐良親王率いる南朝軍が大宰府に進出
して征西府を開府することとなっていく。

添付写真の「高卒塔婆」は陸上自衛隊の基地に隣接して
立っている。見たところ、以前は今では基地内に
なってしまっている敷地内の塚の上に立っていたように
想像する。基地に含まれる時に、現在地に碑を移転した
のではないかと、想像した。

添付写真;高卒塔婆(福岡県小郡市小郡・第五施設団横)
昨日の撮影

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2023年10月21日

「後征西将軍宮発給文書考」入手

論文、川添昭二氏筆『後征西将軍宮発給文書考』
(昭和57年「古文書研究」第十九号抜刷)を入手した。

後醍醐天皇は全国に皇子を派遣して南朝の拠点作りを
行ったが、延元三(1338)年九月に九州に向かったのは
元徳元年(1329)生まれの懐良親王であった。
大宰府に征西府を置いて九州制覇を達成したのは正平十六
(1361)年であるから、吉野を発して実に23年の後で
あった。 懐良親王は落ち目の吉野朝(南朝)にとって
頼みの綱となり、九州の官軍を率いて京の足利賊軍征伐に
上洛を期待された。その場合の留守居役として時の南朝
第二代天皇である、後村上天皇の第六皇子が征西府に下向した。
正平二十年(1365)頃と思われる。
この皇子は便宜的に「良成親王」と呼ばれているが、
実は名前が分かっていない(発給文書は奉者の名が記される
ため、親王の名は書かれない)。
懐良親王が「征西将軍宮」であり、文中三年(1374)年頃
に「将軍」が交替したことで、良成親王は「後征西将軍宮」
と呼ばれるようになった。この交替時期は文中元年(1372)に
大宰府の征西府は陥落しており、九州南朝の衰退期にあたる。

今回入手した川添昭二氏筆 論文『後征西将軍宮発給文書考』
では便宜的に「良成」と呼ばれる親王の他説から始まり、
発給文書の内容の分類、そして発給文書のうちでも令旨の
内容分類や宛先や年度ごとの分類など、文書について分析を
行っている。
結論として、「いづれからみても南朝の末期症状を示すもの
としかいいようがなく、九州宮方の補完作用の実をあげた
などとは到底いえるものではない」としている。

元中九年(明徳三年;1392)の南北合一後も南朝元号
を使って、元中十二年(1395)に発給していた良成親王には
鬼気迫る執念が感じられる。その年、良成親王は逝去した
と思われるが、謎に包まれた生涯の謎の死と言えるだろう。

しかし宗良親王の歌、懐良親王や良成親王の発給文書
など古文書の読み方など、自分的には鑑賞や解読の能力の
不十分さは今後学ぶべき課題だと思う。

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2023年10月15日

南朝方 内牧城

添付写真の中央に写っている小さい山は、南北朝時代
に 南朝勢力であった 狩野貞長の館城であった、
内牧城跡である(静岡市葵区内牧)。
今月09日に当ブログにUPした場所からの写真と異なり、
南側から眺めるとモロに新東名高速道の橋脚が架かって
おり、とてもじゃないが館城が有ったとは思えない所見
でエグイ。
延元3(1338)年、あるいは興国元年(1340)年まで遠江
井伊谷城に滞在した宗良親王だが、延元4(1339)年に足利
賊軍の高師泰らが遠江攻略に乗り出したことにより、親王は
遠江井伊谷を脱出。直後の興国元年(1340)年に遠江井伊谷城
は落城する。
井伊谷を脱出した親王は、興国元年(1340)から興国二年
(1341)まで駿河の狩野貞長の安部城、特に館城であった
内牧城に滞在していたようだ。
そして興国二年(1341)の春には越後の寺泊に移動する。
寺泊の地勢的に水運の拠点、その土地の五十嵐ら南朝方豪族、
そして越後が新田氏の勢力圏であったことからの移動だった
ようだ。
内牧に滞在期間中、歌人としての親王は 富士や田子の浦など
駿河の地をうたっている。内牧城から出かけて景観を見ていた
ことが分かる。
内牧城は興国三年(1342)に落城しているから、親王が越後に
脱出して直ぐのことである。危機感をもっての脱出だった
のだろう。追われる如く彷徨う親王の胸中は寂しいものだった
ろう。

写真;静岡市葵区内牧、内牧城。今月08日(日)の撮影。

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2023年10月09日

宗良親王・内牧城

地形にできるだけ沿う様に通る東名高速道は、
カーブや起伏が多い。一方、新東名高速は地形に
抗って高架やトンネルを穿って作られており、カーブや
起伏が少ない。これによって三車線化された直線的な
高速道は静岡県内などで制限速度が120km/hと、走り易い。
添付写真の中央に写っている小さい山は、南北朝時代
南朝勢力であった 狩野貞長の館城であった、
内牧城跡である。
右側の橋脚は新東名高速道で、高さ30m位は有りそうな
上空を直線で貫いている。しかも高架の橋脚は内牧城に
架かっている。
本丸跡へ行ってみたくて添付写真の愛馬の先の道を下って
みたが、山裾には行けたものの登山道も無く約100m
行って行き止りだった。
結局、この写真の反対側に高速道を潜る道があり、約150m
ほど登ると本丸近くまで行くことができた。しかし土塁や
空堀など遺構は何も残っておらず、高速道の工事で地形が
変わってしまったのだろう。

本丸には碑が有り、後醍醐天皇皇子の宗良親王が滞在した
と、記して有った。宗良親王の追っかけヲタクとしては、
一言でも親王の名を見つけると嬉しい。

宗良親王は延元二年(1337)九月、伊勢大湊から大船団
で東国を目指すも難破して遠江に上陸し、井伊家の奥山城
に入った。
注1)井伊谷の諸城が幕府賊軍により落される中、
親王は 興国元年(1340)九月に井伊城から信濃大河原の
香坂氏の元に脱出した。
そして興国五年(1344)秋、駿河国安倍城に来ていた
興良親王を訪ねるために大河原を出て、安倍城の狩野貞長
の元に寄る。やがてここも幕府賊軍をささえきれなく
なってきたため、親王はいつも居住していた安倍城のうち
の内牧城を夜中に脱出、甲斐を経て信濃佐久方面に向かった。
注2)この遠江井伊谷から信濃大河原に向かい、そこから
駿河安倍城に来たというルートではなく、遠州井伊谷の
井伊介道政の元から東へ向かって直接に駿河安倍城の
狩野貞長を頼った、という説も有り年号も違う。
興国元年(1340)に遠州井伊谷の井伊介道政の元から
駿河の狩野貞長の元に居る興良親王を訪ねたのは同年。
興良親王は興国二年(1341)に常陸小田城の北畠親房
の元へ行き、はやり同年に宗良親王は信濃に向かった説も
有る。内牧城はその翌年の興国三年(1342)にはそれまで
南朝方であった入江氏の離反で攻略落城したとされている
から、年号が合わなくなる。
南北朝の南朝側によって記された資料が少なく、現代の
研究者によって諸説出てくるから、見る本によって違いが
有って混乱してしまう。
ところで安倍城と内牧城を混同しているような書き方に
なったが、内牧城は狩野貞長の治める本城の一部で、
狩野貞長や宗良親王が居住していた城とされている。
つまり本丸は更なる山の上のため、詰めの城と居住の城
という区別である。

いづれにせよ、この辺りで宗良親王が暫く滞在していた
かと想像することは南朝ヲタにとって、感涙することだ。

注1
『宗良親王信濃大河原の三十年 東海信越南北朝編年史』
松尾四郎氏著、1981(昭和56)年12月刊、松尾書店
注2
『宗良流転』 
倉本初夫氏著、1989(平成元年)刊、童牛社・影書房

※添付写真; 内牧城(静岡市葵区内牧) 昨日の撮影

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2023年09月15日

「新葉和歌集」入手

南朝の皇族で好きなのは、長慶天皇と 後醍醐天皇皇子
である宗良親王とであることは既に記した。

宗良親王は武人であると同時に歌人として、生涯が
伝わっている。事実、宗良親王関連の書物を見ると
多くの和歌が掲載されているのだが、その出典元の
「新葉和歌集」を入手できないでいた。
しかしこの度、やっと手元に置くことができた。
現在の出版物では入手困難なため、入手した書物は
明治44(1911)年発行の本である。

しかしつくづく自分には和歌の理解力と鑑賞力に
欠けると、自虐的に思わざるえない。だが目を通すと
賀名生の南朝宮廷で行われた 歌あわせ の様子や各歌人の
感情や息遣いが、伝わってくる。きっと粗末な宮廷建物
だったろうが、そこには長慶天皇を中心に判者に
任じられた宗良親王の姿を取り巻く南朝皇族の姿があった
のだろう。
宗良親王にとっては京の都では無くとも、信州大河原
から出てきてやっと南朝の宮廷で自らの得意な歌で
本領発揮できる高揚感ある時だったはずだ。

「新葉和歌集」は宗良親王が没する4年弱前の弘和元年
(1381)に長慶帝に奏覧された、南朝の天皇や皇族の
歌を集めた歌集である。
この歌集をまとめ上げてからの宗良親王の足跡は、消息
不明の如くはっきりしないが、元中2(1385)年に
没したらしい。まさに燃え尽きたのだろう。
燃え尽きた場所は住み慣れた信州大河原かと思われる。
ひっそりと最期を迎えたのだろう。

「新葉和歌集」
南朝史料◆宗良親王編・准勅撰新葉和歌集
◆明治44初版本・田中光顕題歌
◆後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、北畠親房ら
和歌文学和本古書

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2023年08月03日

今日明日は何の日?

今日明日は何の日? 今日明日は 8月3、4日で
834(馬刺し)の日だという。
そのスジの業界(馬刺し)が謳っている語呂だけど。
ってことで、添付写真馬刺し
先月、長野県伊那市へ 南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である
宗良親王の X-ファイル的な御墓と奇譚を探訪した際、
その地元の名物である 馬刺しを堪能してきた。
添付写真上は 伊那市高遠近くの食堂で食べた
「馬刺定食」(¥1900)。馬刺し赤身の濃淡が有るのは、同じ
赤身でも部位によって違いが有るからだ。これまで食べた中で
最高に柔らかく甘く、美味しい赤身だった。
添付写真下は伊那市内のお肉屋さんで買った馬刺し赤身、
200g。 100g¥800と、超お値打ち。注文すると冷凍では
なく、生身の肉を切って計り売りしてくれる。ただ保冷剤や
氷が店舗に無いということで、コンビニで氷を買って
持参した保冷バックに入れて持ち帰った。
しかし我慢できなくなって復路の 中央道SA で開いて、
醤油も無いまま50gほど食べてしまった。美味い。

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2023年07月22日

宗良親王の古墳

「古墳」とは3世紀半ばから7世紀にかけて墳丘をなして
築盛された墳墓を、特にさして云う。
鎌倉時代から室町時代にかけて、まさに南北朝時代に
鎌倉府周辺で穿たれた「やぐら」という横穴式墳墓など
を代表例として、それらは「中世墳墓」と呼び、埋葬施設
であっても古墳ではない。

南北朝時代を通して合一の7年前(1385年)まで生涯を
戦いと和歌に過ごした宗良親王の終焉地は、各地に有る事
を既にブログで記した。例えば最有力の信州大河原、次点の
遠州井伊谷、想像の域を出ないが次々点の河内山田。そして
地方史にのみ伝わる越中、さらに番外的な現・伊那市の常福寺。

しかし、、、明らかに時代が合わないにも関わらず
宗良親王もしくは護良親王の遺品を埋葬したと地元で
伝わっている「古墳」
が存在している。
愛知県春日井市大留町の「親王塚古墳」である。
この古墳は神明神社の境内にあり、説明看板によると
直径15mの円墳ということである。
昭和44(1969)年に発掘調査が行われ、石室内の玄室奥
壁側から頭蓋骨の一部、須恵器、金環、鉄鏃、刀子など
が出土している。出土遺物から6世紀中葉に築造されて
後葉にかけて複数の人が埋葬されたということである。
(被葬者不明・調査後復元保存)
宗良親王や護良親王とは全く関係ないのに、遺品を埋葬
したという地元伝承に由来して「親王塚古墳」と呼ばれて
いるのが面白い。この地元の人々には、南北朝の悲劇の
親王の存在が意識の中に生きていたということだろう。
それにしても昭和44年まで盗掘されずに残っていたのは
奇跡だ。今でこそ住宅街の中だが、発掘当時は野原の中の
鎮守の森的な神域だったのだろう。

添付写真;親王塚古墳(愛知県春日井市大留町)
今月16日 撮影

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2023年07月18日

異説 宗良親王 終焉地

後醍醐天皇の皇子である宗良親王の最期の地については
諸説有る。信州大河原(大鹿村)、遠州井伊谷(浜松市)、
河内山田(河内長野市)、越中(高岡市)などである。
なぜ多説が有るかと云えば、南朝側の資料としては
残っておらず、主に京の公家や僧院などが伝え聞いた
事を書き記した史料に依っている為である
(ようやく戦乱から平穏が訪れようとしていた頃、南軍
の征夷大将軍にもなった宗良親王の存在は、依然として
恐怖であり、死去に対する希望的な噂が流れ、それが
真実の如くに記録に残った物も含まれるのだろう)。
ともあれ前記の場所のうち信州大河原と遠州井伊谷は
京の史料に記載が残っているのであるが、京の記録には
残らず、地方史料にのみ伝わる終焉地が存在してる。
それは越中であり、河内山田は関しては史料も史蹟も無い、
想像の域の場所だ。
それでも前記の場所は検討の余地がある場所ばかりだ。
しかし X−ファイル に属するような終焉地と伝わる
場所が、異説として存在している。
この異説が 越中と異なり Xーファイル と思うのは、後記
するように 古史古伝の発見過程的だからだ。

添付写真はその異説の有る宗良親王終焉地の常福寺
(長野県伊那市長谷溝口)である。
このお寺の背後は北條時行が立て籠もり、足利方の
小笠原貞宗と戦った大徳王寺城跡と伝わる郭が存在して
おり、隣接する御山と称する場所には宗良親王の墓石
と云われる無縫塔が存在している。
一般に無縫塔は僧侶の石塔ゆえに、明治の中頃に地中に
埋もれた状態で見つかった時には僧侶の墓石と思われて
いたそうだ。それが昭和6(1931)年に地元の郷土史家
が調査したところ、塔身に菊の御紋と「尊澄法親王」の
文字と造塔者である尹良親王(宗良親王の御子)の名が
刻されているのが分かり、宗良親王の御墓として安置
されることになった。
昭和15(1940)年、常福寺の屋根を修理中、屋根裏から
僧形坐像が落下し、その胎内から古文書と観音像が
見つかった。その古文書には石塔を裏付けるような内容
が書かれていた。すなわち「元中二年(1385)、新田
一族、桃井、香坂、知久らの武将と宗良親王は諏訪祝
(上社)に向かっていたところ、逆賊に討たれて
しまった。尹良親王が当寺に来て、父宮の宗良親王や
新田一族の菩提を弔い、法像を建立して法塔を造立した」
ということが、元中八年(1391)に大徳王寺の僧侶に
よって書かれて納めされていたのである。
天井から落下、、、古文書、、、石塔、、、
なんだか古史古伝『東日流外三郡誌』のエピソードを
連想してしまう。石塔や天井から落ちてきた時代を
思えば、「それらによってアイデンティティ」を示そう
とした皇国史観の時代に合致しているように思える。
この場所は信州大河原から諏訪へ向かう 今では国道152
号線沿いであり、まさしく宗良親王も歩いたであろう
ルート上である。しかし宗良親王が討たれたのであれば
討った北朝側の兵には武勲として京にも記録が残った
であろう。が、それが無く地方史だけであるのは史実
としての信憑性は、どうかと思う。
ちなみに南北朝研究の第一人者である森茂暁氏は著書
『皇子たちの南北朝(中公新書)』P.158において、信州
大河原を終焉地の有力地としてあげておられる。

今月15日の撮影;長野県伊那市長谷溝口、常福寺

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2023年06月29日

書籍 入手

好きな日本史の人物、というのは人それぞれだろう。
私は 新田義貞、宗良親王、長慶天皇 そして土方歳三だ。
前3人は南朝、そして4人全員が敗軍の将、、、。
長慶天皇に関しては謎に包まれた部分が殆どだが、
その謎めいた部分を含めて好きだ。
一方、宗良親王は和歌を沢山残されていることで、
存命中の心情など窺い知れる最大の存在であろう。
ただし当時の和歌を解して鑑賞し、味わうのはなかなか
私には難しいことだが。

その宗良親王に関する書物を2冊、入手した。

川田順氏著【吉野朝 桂石 宗良親王】
昭和13(1938)年07月05日初版、第一書房発行

松尾四郎氏著【宗良親王 信州大河原の三十年
東海信越 南北朝編年史】
昭和56(1981)年12月初版、松尾書店発行

川田氏は 出版当時の宗良親王研究での第一人者であるが、
序や本文に当時の皇国史観を感じさせる。例えば序文、
「宗良親王七十余年の御生涯は、吉野朝の歴史と終始
し給ひし観がある。新田氏・楠木氏・北畠氏・菊池氏
等諸将の忠戦は、吉野朝の青史を横断して光り、親王の
義烈は、それを縦貫して輝く。」

宗良親王が何処で生涯を閉じたか、最晩年の2年間が
不明のために諸書を見ても判っていない。
しかし大河原の空の下、静かに御生涯を閉じられた
と願うのだ。

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2023年06月20日

邪神カカセオの権現山へ(6)下山後

岐阜県加茂郡川辺町の 権現山中腹に鎮座する
主祭神、天香香背男命(あめのかがせおのみこと)を
祀る星神社や、山頂の磐座を探訪後には昼食だ。
午前07時半から登り始めて、駐車場に戻ったのは
午前10時00分であった。登山前に川辺町のHPを見ると
往復3時間かかると載っていたが、思ったより早く
行ってこれたようだ。
出掛けると、出先に美味しいお蕎麦屋さんが無いか探す
のも楽しみである。川辺町で検索すると、登山口の
近くに添付写真のお蕎麦屋さんが有った。
メニューには蕎麦寿司も有るが、超行列店のようだ。
早く下山できたので、ともあれお店に行って並ぶ
ことにした。開店は11時00分で、開店50分前に着いて
しまい、流石に一番乗りであった。しかし開店時刻
には20人ほどの行列となったし、食後に精算してお店
を出たら外にやはり20人ほどが順番待ちをしていた。

食事の目当ては15食限定の「そば寿司セット(添付写真)」
である。蕎麦寿司だけでなくデザートまで付いてくる
ボリュームで、なんとお値打ちの¥1300 だから驚きだ。
蕎麦寿司は1988年頃だったが、妻と湯田温泉(山口県)
に泊まった時にお蕎麦屋さんで食べた蕎麦寿司が美味くて
今でも印象に残っているのだが、なかなか蕎麦寿司を
提供してくれるお蕎麦屋さんに出会うことが少ない。
久々に満足の蕎麦を美味しく食べて、帰路についた。

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2023年06月03日

邪神カカセオの権現山へ(4)

写真の場所は岐阜県加茂郡川辺町の、権現山頂上。
麓の常善寺横の星神社への参道入り口から、この
頂上まで1時間10分だった。
登山アプリの YAMAP が表示する地図のスマホの
左側に、頂上に鎮座する 御嶽神社の祠が見えている。
頂上に御嶽神社が鎮座するから、この権現山は
別名 御嶽山と云われている。御嶽神社の周囲には
御嶽講の霊碑が何基か存在していたが、本家本元の
木曽御嶽山が眺めることができることから遥拝の
山となったのは、近代つまり明治以降くらいだろう。
山の中腹に鎮座した、主祭神である天香香背男命
(あめのかがせおのみこと)を祀る星神社と、金星
である虚空蔵菩薩堂の権現という名前を戴いた姿が、
山の本質であろう。

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2023年06月02日

邪神カカセオの権現山へ(3)

写真の場所は岐阜県加茂郡川辺町の、権現山。星神社への400
数十段の石階段を上がると、星神社の鳥居が見えてくる。
星神社の主祭神は天香香背男命(あめのかがせおのみこと)
である。
雑誌【ムー】の5月号(No.510)において、本田不二雄
氏の筆による『消された邪神「カカセオ」と超古代「星神
王朝」の謎』という巻頭特集で、天香香背男命という神様を
知ったばかりなので、大いに興味を持って参拝した。
本田氏によると「はるか古代、茨城県の北部、多賀山地の南端
に大和朝廷の支配に最後まで屈しなかった神がいたという。
その名も天津甕星=カカセオ(天香香背男)」ということである。
天照大神が葦原中国に降臨するのに、最後まで抵抗した、
つまり大和朝廷側からの視点で云えば、邪神悪神であり
屈服させなくてはならない神様が、天香香背男なのである。
本田氏によると天照大神が太陽なら、太陽が隠れた後に多くの
星々の中でひときわ輝く金星こそが天津甕星=カカセオ
(天香香背男)ということになる。
そして神仏習合では虚空蔵菩薩こそが金星であり、星神社の
本殿近くには虚空蔵菩薩堂もある。
しかし関東の神様が、なぜ岐阜県に?と思うが、本田氏は
「カカセオの流れをくむ末裔たちが各地で歴史をき刻み、やがて
仏教と習合し、ときに変容を重ねながらも、星神信仰を伝えて
(略)」 と記載されていらっしゃる。その末裔とは物部氏
の流れである、とも云われている。

大和朝廷黎明の頃の神々の系譜が今に伝わっているかと
思えば、スケールの大きな話である。

※本年05月28日(日)、参拝 撮影

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2023年06月01日

邪神カカセオの権現山へ(2)

権現山の中腹に鎮座する 星神社までは400数十段の
石階段で登れる。その先、虚空蔵菩薩堂から頂上までは
登山道となる。登山道と云いながらも地元の人たちが
道を整備されているので、迷うことも無い一本道である。
とは云え 山歩きに馴れている訳ではないので、一応
YAMAPの地図を入れて(添付写真)、現在地を確認
しながら登った。登山道が地図上に図示されて、
現在地が歩くと移動していくから安心だ。

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2023年05月25日

橘寺へ ( 明日香村 )

新型コロナ騒動期間中は スティホームゆえに
「ホーム(母国)」に特化した撮影を行っていたが、
中でも 一番歴史の中で好きな時代である 南北朝時代
関連の史蹟はかなり歩いた

今夜 UP の写真は 5類に移行後、初の撮影となる。

南北朝史蹟でも、かなり重箱の隅をつっつく様な場所だ。
橘寺 ( 奈良県高市郡明日香村 )。
お寺のパンフレットや案内看板のどこにも南北朝史蹟
とは、記載が無い。

橘寺、、、元中九年(明徳3;1392)、南北朝合一を
受け入れた 南朝第四代天皇である 後亀山天皇は
三種の神器を先頭に、僅かな供奉人々と共に「南山」を
出立し、足利義満や北朝の後小松天皇の待つ京の内裏
へ向かった。
十月二十八日、「南山」を出立し途中で雨により橘寺
で御一宿した。つまり 橘寺は南北合一前の最晩年の
行宮となった寺なのである。
現在の橘寺は度重なる兵火や天災で焼けたために、
元治元年(1864)以降に再建された伽藍が殆どである。
ゆえに南朝の天皇御一行が行宮とされた建物は、残って
いない。しかしお寺の場所には変化が無いようなので、
周囲の地形などから想像を逞しくして後亀山天皇の
行幸を想像する。

この南北の合一に向けた後亀山天皇の行幸については
1997年初版(角川選書)森茂暁氏著『闇の歴史、後南朝』
に詳しい。森氏は「南山出立」の「南山」を賀名生や
栄山寺ではなく、吉野とされている。
1949年初版(中央公論社)村田正志氏著『南北朝史論』
では、「行宮を明示する史料は今日不幸にして傳存しない
(中略)元中九年の頃は確実に吉野と考えられるのである。」
とされており、この説に基づいているのだろう。
南北合一に向けて後亀山天皇が何処から出立したか、
それに興味を持つのは学者さんか超マニアックな
南朝ヲタくらいだろうけど。。。
ともあれ、この橘寺には南朝の天皇が立ち寄った一夜の
行宮であったのだ。

橘寺 の駐車場にて; 今月21日(日)の撮影

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2023年04月21日

徳島へ(5)グルメ D

昨年、徳島へ 南朝第三代天皇である 長慶天皇の
御陵
を撮影に行った時の グルメ。

拙者が住んでいる地域で「かつ」と云えば 豚かつ
意味するし、特に 味噌かつ はソウルフード になって
いる。 しかし徳島では「かつ」というと豚ではなく
の「フィッシュかつ」を指すという。
「フィッシュカツ」は近海で獲れた太刀魚やエソなどの
白身魚のすり身にカレー粉や唐辛子、調味料を加え、
パン粉をまぶして揚げた徳島のソウルフードだ。
この徳島版カツ をホテルの朝食バイキングで食べて
美味かったので、帰宅後に取り寄せたのが添付写真。
色んなメーカーから出ているようだが、このメーカー
のが一番美味かった。

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2023年04月20日

徳島へ(4)グルメ C

昨年、徳島へ 南朝第三代天皇である 長慶天皇の
御陵を撮影に行った時の グルメ。

「徳島ラーメン」のように地名を名乗っていないが、
瀬戸内ならではの鯛を使った 鯛塩ラーメン店がJR
徳島駅の近くに有るので行ってきた。
鯛の出汁は滑らかでありながら濃厚な美味さ。
ラーメンを食べてから残った汁に、ご飯をぶち込む。
それ用の御飯は十五穀米で、 粉チーズまたは塩昆布
が掛っているのを選択できる。塩昆布を選択したが、
むしろ何も掛っていない方が良かったかもしれない。
ともあれまた食べたいラーメンだ。

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