地形にできるだけ沿う様に通る東名高速道は、
カーブや起伏が多い。一方、新東名高速は地形に
抗って高架やトンネルを穿って作られており、カーブや
起伏が少ない。これによって三車線化された直線的な
高速道は静岡県内などで制限速度が120km/hと、走り易い。
添付写真の中央に写っている小さい山は、南北朝時代
に
南朝勢力であった
狩野貞長の館城であった、
内牧城跡である。
右側の橋脚は新東名高速道で、高さ30m位は有りそうな
上空を直線で貫いている。しかも高架の橋脚は内牧城に
架かっている。
本丸跡へ行ってみたくて添付写真の愛馬の先の道を下って
みたが、山裾には行けたものの登山道も無く約100m
行って行き止りだった。
結局、この写真の反対側に高速道を潜る道があり、約150m
ほど登ると本丸近くまで行くことができた。しかし土塁や
空堀など遺構は何も残っておらず、高速道の工事で地形が
変わってしまったのだろう。
本丸には碑が有り、後醍醐天皇皇子の宗良親王が滞在した
と、記して有った。宗良親王の追っかけヲタクとしては、
一言でも親王の名を見つけると嬉しい。
宗良親王は延元二年(1337)九月、伊勢大湊から大船団
で東国を目指すも難破して遠江に上陸し、井伊家の奥山城
に入った。
(
注1)井伊谷の諸城が幕府賊軍により落される中、
親王は 興国元年(1340)九月に井伊城から信濃大河原の
香坂氏の元に脱出した。
そして興国五年(1344)秋、駿河国安倍城に来ていた
興良親王を訪ねるために大河原を出て、安倍城の狩野貞長
の元に寄る。やがてここも幕府賊軍をささえきれなく
なってきたため、親王はいつも居住していた安倍城のうち
の内牧城を夜中に脱出、甲斐を経て信濃佐久方面に向かった。
(
注2)この遠江井伊谷から信濃大河原に向かい、そこから
駿河安倍城に来たというルートではなく、遠州井伊谷の
井伊介道政の元から東へ向かって直接に駿河安倍城の
狩野貞長を頼った、という説も有り年号も違う。
興国元年(1340)に遠州井伊谷の井伊介道政の元から
駿河の狩野貞長の元に居る興良親王を訪ねたのは同年。
興良親王は興国二年(1341)に常陸小田城の北畠親房
の元へ行き、はやり同年に宗良親王は信濃に向かった説も
有る。内牧城はその翌年の興国三年(1342)にはそれまで
南朝方であった入江氏の離反で攻略落城したとされている
から、年号が合わなくなる。
南北朝の南朝側によって記された資料が少なく、現代の
研究者によって諸説出てくるから、見る本によって違いが
有って混乱してしまう。
ところで安倍城と内牧城を混同しているような書き方に
なったが、内牧城は狩野貞長の治める本城の一部で、
狩野貞長や宗良親王が居住していた城とされている。
つまり本丸は更なる山の上のため、詰めの城と居住の城
という区別である。
いづれにせよ、この辺りで宗良親王が暫く滞在していた
かと想像することは南朝ヲタにとって、感涙することだ。
(
注1)
『宗良親王信濃大河原の三十年 東海信越南北朝編年史』
松尾四郎氏著、1981(昭和56)年12月刊、松尾書店
(
注2)
『宗良流転』
倉本初夫氏著、1989(平成元年)刊、童牛社・影書房
※添付写真; 内牧城(静岡市葵区内牧) 昨日の撮影by
HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/
posted by gagaku at 10:19|
史跡
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