2020年03月06日

上朝宮の 宝篋印塔

上朝宮(滋賀県甲賀市信楽町)の 細い山道を走って
いて、路傍に立派な 宝篋印塔 を見かけた。
残念ながら相輪は後補だが、それ以外は完存かと
思える。まず目を引いたのは塔身の四方仏である。
風化しているが、種子ではなく肉厚に浮き出た仏様
を拝することができる。そして隅飾突起は僅かに
外側に傾斜が見られるものの、輪郭が微かに残って
ニ弧の装飾状である。基礎にはやはり風化してはっきり
しないが、反花座のようにも見える。
前記したように相輪の欠損は惜しいが、それでも優雅
で落ち着いた雰囲気の美しい宝篋印塔だ。
近江には集落に一基は宝篋印塔が残存していたりする。
このように路傍だったり、神社や寺院境内、または
移動されたのか公園の片隅だったりする。それらの
うち、完存は稀なれど、石造美術としてでなく、それら
は墓石であったり供養塔であったり、または集落民の
浄土への希求の祈りの対象だったりと、昔の人々の
心の中の祈りの凝縮した塊であるのが宝篋印塔なのだ。
過ぎ去った時間、つまり過去に実在した人々の証の
一つでもあるのだ。
この宝篋印塔の造塔時代は、鎌倉時代末期頃と思われる。

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2019年03月21日

木之本町石道へ(8)旧・石道

今月10日(日)、D51牽引の「 SL 北びわこ号 」
を撮影前に探索した、旧・石道寺跡。
仁王門の石垣から参道を歩いて約100m、草に
覆われた五輪塔など石塔群が安座する墓地より
一段高い平地に、本堂跡が有る。
柱を支えた礎石を探すが、配列が不規則である。
礎石になるような立派な石は、持ち去られた
のかもしれない。 本堂跡のど真ん中に、
添付写真のような窪みが有った。堂内荘厳の
用途なのか、建築的な窪みか分からない。
本堂自体は御本尊共々、明治年間に現在の
新・石道寺に移築された。御本尊は 十一面観音
立像、持国天立像、多聞天立像である。

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2019年03月20日

木之本町石道へ(7)旧・石道寺

今月10日、D51牽引の「 SL 北びわこ号 」を撮影前に
探索した、廃寺跡である 旧・石道寺。
昨日の UP に続いて、旧・石道寺 墓地に安座している
見事な形状の五輪塔が、今夜の写真。
水輪の胎蔵界大日如来の種子である「ア」の右側に
「権大僧都法印教導」、左側に「永禄九年七月
二十七日」とある。昨日 UP の五輪塔の 後の日付
が刻印されている。僧侶の墓、もしくは供養塔であるが、
年月日は供養の日か没日かは不明である。
永禄九年は西暦の1566年で、地元の浅井家が滅亡した
姉川合戦の 4年前である。
さて、その五輪塔。水輪の下方が膨らんだ下膨れ
で、昨日 UP した五輪塔と僅か7年しか違わないのに、
造形がかなり違うことに驚く。ただ、火輪の隅の
反りや風空そして地輪は、形状的に共通性が有る
ように思えた。
被供養者の僧侶は存命中、どんな方だったのだろうか。

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2019年03月19日

木之本町石道へ(6)旧・石道寺

今月10日、D51牽引の「 SL 北びわこ号 」の撮影前に
探索した、旧・石道寺跡
(滋賀県長浜市木之本町石道)。
本堂脇の一段下がった所に旧墓地が有って、二十数基
の石塔群が安座していた。その中でもひときわ目を
引くのが二基の五輪塔であり、目指して来た石塔で
ある。
二基のうち、まず一基について。
地輪には 胎蔵界大日如来の種子である「ア」が
しっかり判読できる。「ア」の右側には
「隆尊大和尚」、左側に「永禄二年七月十二日」
とある。
ここの五輪塔の素晴らしさは、その素性の判る事と、
当時 建立された場所から移動していない可能性が
高い事が挙げられる。
永禄二年は1559年で、お寺の和尚さんのお墓、
もしくは供養塔ということが判る。
五輪塔の各輪には種子が残存している。ただ、特徴的
な形態の印象を受けるのは、水輪が樽型で細長い点
であろう。 地輪の縦横比も、室町時代後期らしく
同率に見えている。塔高は1mほどであり、時代的に
標準的であろう。
ちなみに建立された1559年は、尾張桶狭間の戦いの
前年であり、近江は浅井家の時代であった。

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2019年03月17日

木之本町石道へ(5)旧・石道寺

D51牽引の「 SL 北びわこ号 」を撮影前に探索した、
滋賀県長浜市木之本町石道の旧・石道寺跡。
一昨日、昨日と UP した 仁王門跡石垣などから
奥へ歩くと、山の斜面を開削したり盛り土して堂を
建てたと思われる平地の痕跡がみられるようになる。
しかし明治時代に廃寺となってからの時間の流れで、
かつては平地であったろうと思われるだけで、今では
崩れがちである。
やがて目的である、五輪塔の佇む場所に出た。
場所は本堂跡の下段で、参道から2mくらい高い
場所である。見渡すと、五輪塔も一石五輪も有るし、
他には無縫塔や石柱墓もある。ざっと見て、20数基
の石塔が存在している。
ここの五輪塔の素晴らしさは、私的に下記であろう
と思う。
地輪に銘が有り、被供養者や年度が判る。
寄せ集め塔でなく、ほぼ完存。
そして、保存のために場所が移転されていないため、
本来の場所に存在する

などの点だろう。
整備” の名目で荒らされる” ことなく、静かな
山中で安らかに過ごす石塔群に、手を合わせてから
シャッターを切った。

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2019年03月16日

木之本町石道へ(4)旧・石道寺

D51牽引の「 SL 北びわこ号 」の撮影前に探索した
のが、滋賀県長浜市木之本町石道の 旧・石道寺。
昨日 UP した 仁王門の台座礎石の石垣を通り、
山の奥へ30mも進むと、左側に石垣が見えてくる
(添付写真)。
山の斜面に建てられていたお寺だから、元参道は
平坦でなく、かと云って急勾配でもない。せいぜい
100パーミルくらいの坂道だろう。その道は、折れて
重なった小枝や雑草を踏みしめて歩く山道だ。
しかし添付写真をご覧頂いても樹木の幹にテーピング
されていることが分かるように、山は人が入って
手入れがされているようだ。
ただ、石垣の場所には平地で建物が有ったはずだが、
木が生えている。 廃寺の跡を 公園のように整備
してしまうのでなく、かといって成り行きで自然に
還ってしまうという状態でもない。保存”という
意図が働いているかどうか不明だが、自然と遺跡の
風化具合のバランスが素晴らしいと思う。

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2019年03月15日

木之本町石道へ(3)旧・石道寺

D51牽引の「 SL北びわこ号 」の撮影前に探索した
旧・石道寺(滋賀県長浜市木之本町石道)。
昨日 UP した場所に車を駐車し、三叉路の北西側に
歩く。 すると最初に石垣が目に飛び込んでくる。
仁王門の遺構である。
左右の石垣の端から端で 十数メーターは有り、威風堂々
とした仁王門だったことが判る。 
石道の集落に移転した新・石道寺の案内看板には
明治時代に移転したと記載されていたが、詳細な
年月日が不明である。
しかし少なくとも廃寺となって100年は経っている
だろうから、時間の経過で風化にまかせた遺構の
景色が味わいある。
阿吽の仁王門を潜る参道は、石段だったのだろうか?
それとも地面が剥き出しだったのだろうか?
土が堆積し、その痕跡を探ることは難しい。
人里離れた旧・石道寺は修行の寺として、多くの
僧侶がこの山門を通って、山の霊力を身に憑けよう
としたことだろう。
尚、御本尊が新・石道寺に移されただけで、仁王像
は残存していない。

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2019年03月14日

木之本町石道へ(2)旧・石道寺

D51牽引の「 SL北びわこ号 」の撮影前に、寄り道。
長浜市木之本町石道の、旧・石道寺に安座している
五輪塔の探索だ。
現在、石道の集落内にある新・石道寺は、元の山中の伽藍
から 改築した現在の本堂に、明治時代に移したのである。
元の旧・石道寺は更に奥に1kmほど行った場所に
有ると聞き、限られた時間内で行ってみた。
新・石道寺の駐車場を過ぎた辺りから 対向車が
来たらすれ違い困難な細い道となった。もっとも
対向車など来ないが。
そのような細い道を行くと、舗装道が未舗装となった
辺りが三叉路となり、車の方向転換が可能なスペースが
かろうじて有った。
この三叉路で写したのが添付写真で、車は機回し
して里に向いている。
写真の左側の方へ行くと 旧・石道寺で、右は山中に
入る道だが、車では進めない。
旧・石道寺は廃寺であるし、周囲には何も無い。
旧・石道寺や鶏足寺などの有る己高山の西麓一帯は
山岳宗教の聖地であり、旧・石道寺は神亀三年(726)
に延法上人が草創されたという。元は天台宗であったが、
後に真言宗に移行している。
このようなことから、元は修行の寺であったから人里
離れて存在していたのが、近世になって里に降りて
修行の寺から里人の現世利益の寺に変質したのであろう。

「 SL北びわこ号 」の撮影予定場所へ移動するタイム
リミットが迫っている。さっそく廃寺内を歩いて
みよう。

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2019年03月13日

木之本町石道へ(1)

D51牽引の「SL北びわこ号」を撮影前に、寄り道。
木之本町杉野中(滋賀県長浜市)に寄ってから、
木之本町石道へ行った。
目的は石道の 石道寺に安座している、五輪塔である。
木之本町も あちこちと訪れているのだが、石道へは
初訪である。
石道の集落を抜けて行くと、集落規模からすると驚く
様な整備された駐車場へ出た。この石道と木之本町
古橋は、紅葉で有名な旧鶏足寺(旧飯福寺)への参詣道
が有るから、観光シーズン用の駐車場なのだろう。
ともあれ駐車場に車を停め、石道寺へ行ってみる。
狭いが妙に小奇麗に整備された境内には、目指す五輪塔
は無し。そうだった!。五輪塔が安座しているのは、
石道寺なのだ。ちょうど地元の青年がランニングの
トレーニングで山道を走って来たので訊ねたが、
旧鶏足寺は判るけど 旧石道寺は判らない とのこと。
んんん〜 旧石道寺って何処に有るのだろう?
「SL北びわこ号」の撮影地へ移動することを思えば、
無駄な時間をロスして深入りはできそうにない。諦めて
戻るために石道の集落内に入った時に 年輩の御夫婦に
出会ったので念のため訊ねたら、 旧石道寺を御存じで
いらっしゃった。それは 更に1Kmほど奥へ入った処、
だという。果たして行って目的の五輪塔に直ぐに出会える
のか? 迫るタイムリミットの中で時計と相談し、急いで
行ってみることにした。
と書いているのは、旧石道寺は明治時代に現在地に
移転して新石道寺となって、旧の方は跡地になっている

からである。

添付写真; 石道寺の前の駐車場。

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2019年03月09日

木曽義仲公・松尾芭蕉翁 墓

先日の日曜日、びわ湖ホール(滋賀県大津市)で
ワーグナー作曲 舞台祝典劇『ニーベルンクの指環』
第2日「ジークフリート」を聴く前に、近くの
義仲寺(滋賀県大津市馬場)を参詣した。

境内には同寺に眠る 源木曽義仲公と、義仲を慕い 死後に
義仲公の隣に埋葬されることを望んだ俳諧師の松尾芭蕉翁
の石塔が並んで立っている。
芭蕉翁は大阪の旅窓で逝去されたが、臨終にさいして 木曽塚
(木曽義仲公墳墓)に並び埋葬するように遺言し、子弟が
遺骸を義仲寺に運んで墓を立てたという。

木曽義仲公の墳墓の石塔は 宝篋印塔 であり、芭蕉翁は
自然石を用いた質素なものである。

ところで 木曽義仲公の宝篋印塔は、どうなの? という疑問
が涌く。  まず義仲寺の始まりは、愛妾の巴御前が義仲公
の最期の地に庵を建てて菩提を弔ったのが最初と云われて
いる。どのようなモニュメントが最初に有ったか判らない。
ただ、、、現在立っている宝篋印塔は、当時の石塔では無い。
これは寺社伝にも記載されていないが、宝篋印塔が日本の
石塔の歴史に登場する一番最初が 1230年の京都市右京区
高山寺の石塔が初見で、木曽義仲公が亡くなったのは1184年
なのだから、最初に宝篋印塔が登場する50年ほど前に既に
木曽義仲公は没しているのである。とすれば当然、現在
有る宝篋印塔は、巴御前が(伝)供養のために建立したもの
でないことが判る。
では宝篋印塔がいつの建立かというと、完存の石塔でない
ように思えるから、時代の特定が難しいと思う。石造美術に
関して浅学なので、その点を御了承頂きたいのだが、、、
この宝篋印塔、笠から下の部分、つまり塔身と基礎が他の
石塔を組み合わせたサイボーグ状の所謂「寄せ集め塔」の
ように思える。まず基礎と塔身の間に段形も「反花」も無い。
基礎はまれに無地のものがあるとは云え、場合によったら
基礎は五輪塔からの代用に思える。塔身の方形枠に湾曲が
入った例は珍しく、これも怪しい。ただし笠の隅飾突起の
傾斜や大きさから、鎌倉時代中〜後期の様相とは思える。
恐らく この宝篋印塔は後世に供養塔として建立された石塔
の一部か、あるいは伝承に基づいて 石塔を寄せ集めて立てた
ものと推察する。
芭蕉翁が没した時、この石塔が有ったのか、有ったとして
別物だったのか完存だったのかは、むろん判らない。
ただ木曽義仲の生き様を慕った芭蕉翁が、木曽殿の眠る地
に同じように眠りたいと願い、その願いが叶ったことは
確かである。宝篋印塔という物が云々ではなく、やっぱり
木曽殿最期の地に同じように眠っているということが、大切
なのだと思う。

添付写真上; 源木曽義仲公 宝篋印塔
添付写真下; 松尾芭蕉 墓

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2018年12月15日

買物ブログ( 本 )

通販サイトでは 「お薦め」商品を提示してくることが
ある。いいかナ と思い、物欲で ポチることがある。
最近、同時に ポチった本 2冊。(新刊ではないが)

石塔調べのコツとツボ 】藤澤典彦・狭川真一著
       (高志書院;2017年01月20日初版)
板碑と石塔の祈り 】千々和到著
          〜日本史ブックレット31
      (山川出版;2013年09月25日第3刷)

「石塔調べ」の方は、コツ(骨)と ツボ(壺)で
骨壺かと思った、ぬぁ〜んてのは冗談。
本書は前半後半部に分かれており、前半では各種石塔の
時代変化などを部分ごとに検討している。対談形式で、
ボケとツッコみのように対話が進行しており、読み易い。
後半は、かなり石塔ファンでも深く調査したい人向け
の内容になっている。巻尺やノギスなどを持参し、
石塔の計測と図面作成方法などが記載されている。
拓本についても記載されており、超マニアックである。
森に入り込み、一本一本の樹木を見ているような本
である。

一方、「板碑」の方は 森の上空10mからドローンで
森全体を俯瞰するような内容である。板碑の成立に
ついての記述は興味深いが、板碑だけの記載ではない。
この 日本史ブックレットのシリーズ29に、【石造物
が語る中世職能集団(山川均著)】があるが、この本
では まだ 宝篋印塔のルーツについて、断定的な記載
ではなかった。しかしこの本では、かなり断定的な
記載がなされており、両書の発行年に大きな開きが
無いにも関わらず、研究が進んでいることが伺い知れた。
石塔の入門書としても、読み易い本だ。

両書とも、ポチって良い買い物だった。

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2018年07月24日

今日は 湖北へ(3) 層塔

一昨日、北陸線(滋賀県;米原〜木之本間)で
走った臨時列車「 SL 北びわこ号 」を撮影してきた。

汽車の撮影の前に 石塔を一基、拝見してきた。
米原IC から近い、米原市三吉の八坂神社に安座して
いる 九重石塔層塔である。
神社の鳥居をくぐり参道を進むと、20段くらいの
階段で拝殿になるが、その階段を登らない右側の
山の斜面に僅かな平地をもうけて建っている。
高さ394.5センチ、花崗岩製で後補もない完存の
九重層塔である。基礎の格狭間に近江式文様の
宝瓶三茎蓮を刻む。初層の軸部の如来坐像の横に
元享三年(1323年)と刻まれている。後醍醐天皇
即位の5年後、清和源氏 新田義貞が23歳、その
ような頃の建立である。

神社ではちょうど氏子さんたちが、虫干しを
されていた。蔵から出された蔵物の中に、湯立の
釜があったのでお尋ねしたら、春秋の祭典時に
湯立がなされているという。

汽車の時刻が迫っていたので神社を後にして、
撮影目的地へ向かった。

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2018年07月11日

御所ノ前 石塔群

「送り神」の撮影に行った 岐阜県恵那市大井町
御所ノ前の、県道68号線沿いで見かけた石塔群。
オリジナルを保つ石塔は五輪塔の一部で、殆どが
いわゆる「寄せ集め塔」だが、興味深い存在だ。
「送り神」の行事は この石塔群の道路を挟んだ
反対側にある、阿弥陀堂が出発地点だ。
阿弥陀堂は 小さいお堂があるだけだが、その
お堂の存在と、近い所の石塔群の存在から
この辺りは集落外れの墓地が広がっていたのでは
ないかと想像した。今でこそ その面影は無い。
存在していた五輪塔の火輪の形状から、時代は
鎌倉末期〜室町初期かと思う。恐らく町が発展
拡張される過程で墓地の中に県道となる道が
通り、墓地もほとんど整理されてしまい、残った
のが今日の阿弥陀堂と石塔群ではないだろうか。
古そうな石塔だけ残し、江戸から近世の四角柱
墓石は除去されてしまったのではなかろうか。
阿弥陀堂と道路挟んだ反対側にある添付写真の
石塔群、これらもこの町の歴史の証人だろう。

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2018年07月04日

天の川(滋賀県)〜 3.

滋賀県米原市朝妻の朝妻神社にある彦星塚と云われる
宝篋印塔の北側15mほどの所に、もう一基の石塔が
安座している。添付写真上の矢印 左側で、その石塔
の種類は 層塔である。
右側の矢印は、 宝篋印塔。

天の川伝説由来という「彦星塚」という 宝篋印塔 は
雄略天皇 第四皇子 星川稚宮皇子の墓だという。
石塔の形式から、作は鎌倉時代末期の可能性がある
ので、星川稚宮皇子の墓というのは 伝 である。
天野川を挟んだ対岸にある蛭子神社に安座の自然石
の方は「織姫塚」は 仁賢天皇の第二皇女 朝嬬皇女
の墓だという。
この二基でもって「天ノ川()」における「七夕」
のストーリーが仕上がっている。
ている。
しかし「七夕」奇譚から漏れたのが、添付写真下の
層塔である。軸部に仏像が陽刻され屋根は三重だが、
相輪には五輪塔の風空輪が代わりに乗せられている
から、あるいは屋根も五層だったのが欠落したのかも
しれない。
神社に石塔が二基、、、廃仏毀釈時にお寺が廃絶し、
石塔だけが残ったのか。あるいは石塔がどこかから
移設されたのか。経緯は不明だ。

「天ノ川」= 天野川。米原山中に発し、琵琶湖に
注ぐ一級河川。

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2018年06月28日

水分神社の宝塔

滋賀県大津市栗原の水分神社、本殿手前に鎮座して
いた宝塔。
一見して異様な格狭間に驚いた。硬い直線状で、
優雅さに程遠い。 相輪は本来、九輪の処が
五輪しかない。宝塔塔身は樽形ながらも、いびつに
歪んでいる。 室町時代後半の石塔と思われるが、
見よう見まねで制作したような塔である。
しかし熟練工でなくとも、一生懸命に作塔して
供養しようという祈りの伝わってくる姿である。

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2018年06月25日

米原市小田の石塔

滋賀県米原市小田(やないだ)の妙覚寺の石塔を
訊ねた。
静かな集落の隘路を走り、お寺正面の空き地に駐車。
お目当ての石塔は、本堂横の庭(?)の片隅に安座
していた。少なくとも高さ1mは有るだろうと思って
いたから、見かけた時には そのかわいさに驚いた。
四基が並び、一番左と左から三番目が一石五輪塔。
左から二番目が小型五輪塔板碑(小型浮彫五輪塔)。
一番右側が風空輪を喪失した五輪塔である。
一石五輪塔は文字通り、一つの石を五輪塔の形に
削り出した石塔である。小型五輪塔板碑は、五輪塔の
形を板状の石塔に彫刻したものである。
一石五輪塔は、室町時代から江戸時代にかけての
墓石である。
例えば左から三番目の銘をみると、
「(正安二年十一月一日) 落河 椙山(主?)共實」
つまり西暦1279年に個人の墓か供養のための石塔と
分かる。この一石五輪塔の高さは52センチである。

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2018年06月24日

湖北町山本の石塔

湖北の琵琶湖沿岸近くの山本山は、お椀をふせた様な
姿で、よく目立つ。山に登ると、北陸線を走る季節
列車の「SL北びわこ号」が俯瞰撮影できたりする。
この山の山麓の集落が、山の名前の通り、山本だ。
今は長浜市湖北町山本である。
この山本にある五輪塔には、源平の合戦時の逸話が
ある。木曽義仲が山本義経の居城である山本山城に
滞在した時、巴御前が赤子を出産。しかしすぐに
亡くなったため、京に向けて出陣前に埋葬して供養の
石塔を建てて菩提を弔った、その五輪塔だと云う
のである。
ただ、、、その五輪塔の存在する場所が、ちょいと。。
火葬場跡だという。
集落内を走り、見かけた人に場所を訊ね、訪問。
そうなのだ。火葬場だから、集落の人家集中地には無い。
集落の周りに広がる田畑の中に平地が有り、
「南無阿弥陀仏」の石碑が目につき、そこと分かった。
だがお目当ての五輪塔は、崩れ果てていた。保護柵を
壊して転げ落ちた風空輪が痛々しい。おまけに水火輪
もバランスを崩している。
とっさに組み直そうかと思ったが、止めた。まず山本の
自治会長などに話してからでないとダメだろう。
それと雑草とやぶ蚊の出ない冬場に軍手持参でないと
ダメだ。しかし私一人の力で持ち上がるだろうか。
なぜ五輪塔が崩れたのだろうか。

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2018年06月22日

西浅井町の石塔(8)黒山〜4.

滋賀県長浜市西浅井町黒山の真言宗智山派 東光院
には無数の石仏(阿弥陀如来を刻む)と五輪塔、
そして層塔が安座している。
昨日UPしたブログの写真のように、8割がた原型
を保ち、なおかつ時代が分かる石塔が有る一方、
今夜の写真のように雑然とした石塔もある。
五輪塔の火輪から上を寄せ集めたような石塔、
宝篋印塔の笠を幾つも重ねたような石塔も
見られる。宝篋印塔の塔身部分の残存が少ない
のは、その部分が例えば石垣とか 他に流用し
易いからだろうか。
石塔を美術的な視線から見るなら、完存であれば
鑑賞度は高くなるだろう。しかしこのような
寄せ集め塔からも、長い時間の経過での変化にも
変わらない、極楽浄土への希求の祈りが感じられる
のだ。 石塔の魅力は 石塔に祈りを込めた、実在して
いたのに 名も伝わることも無く歴史の時間の中に
消えて行った人々の存在を想像してみることが出来る
ということにもある。

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2018年06月21日

西浅井町の石塔(7)黒山〜3.

滋賀県長浜市西浅井町黒山の真言宗智山派 東光院
には無数の石仏(阿弥陀如来を刻む)と五輪塔、
そして層塔が安座している。
この添付写真は、層塔と五輪塔の並び。
左側の層塔は五層で屋根は完存しているが、相輪が
欠けている。中央の層塔は相輪が完全に欠落。
右側は四層の姿だが、元は五層だったのだろうか。
相輪部に五輪塔の風・空輪が乗せられている。
いづれも完存ではないのが残念だ。時代的には
南北朝期〜室町期と思われる。塔身部に穴が見える
が、舎利容器か経典を納めた処と思われる。
層塔の横には、ここ黒山の石塔の中で最も
古いと思われる鎌倉期の五輪塔が安座している。
水輪に比べ、火輪の厚みが薄く思われる。地・
水輪には梵字も認められる。

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2018年06月19日

西浅井町の石塔(6)黒山〜2.

滋賀県長浜市西浅井町黒山の真言宗智山派 東光院
には無数の石仏(阿弥陀如来を刻む)と五輪塔、
そして層塔が安座している。
構成が崩れてしまって、適当に組み合わされた
石塔も多いが、原型を保つ石塔もある。
この石塔群から150mほど離れた所に、黒山の
産土社である稲荷神社がある。
小さな石仏は明治初年の神仏分離令の時に、
山中に埋められていたたという。道路に面した
処の、この五輪塔はどうであったか不明であるが、
ほぼ原型と思ってよいだろう。鎌倉時代末から
室町期初期ころの石塔だろうか。つつじ が寄り
そうように咲いていた。600年も変わらぬ静かな
五輪塔と、咲き そして散っていく 動的な つつじ。
静と動の並びが美しい。

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