2023年12月04日

宗良親王の足跡を求めて初瀬長谷寺へ

初瀬の長谷寺の登廊にて私が手にしているのは、
後醍醐天皇皇子である宗良親王が第三代南朝天皇の
長慶天皇に弘和元年(1381)に奏覧された、南朝の
人々による歌が編纂された『新葉和歌集』の現代版
(明治44年:1911年発行)。

宗良親王は二度出家している。応長元年(1311)に
生まれた親王は正中二年(1325)に天台宗妙法院に
入室し出家し、尊澄法親王と名乗った。ただし
新田義貞らの武功により鎌倉幕府を倒して建武政権が成立、
やがて足利賊との対立で後醍醐天皇が京から吉野へ
脱出した頃に尊澄法親王は伊勢へ脱出して還俗して、
宗良親王と名乗った。
その宗良親王が再度出家したのは信州大河原から吉野を
暫し訪問後、再度 信州への途上において初瀬の長谷寺
においてだという。天授三年(1377)十一月の事である。
『新葉和歌集』には添付写真のように
「初瀬にて世を逃れ侍りしことを(中略)
君になど我世初瀬の鐘の音の(後略)」
と歌っている。君とは長慶天皇のことであり、長慶天皇
にも一言も漏らさずに吉野朝行宮を立ち去った様子が
歌われている。宗良親王の二度目の出家の背景には、
親王の子である王子との死別で菩提を弔うためという
理由が考えられているが、その王子が誰かは不明の
ようだ(参考;川田順氏著「宗良親王」昭和13年初版)。

今回の初瀬・長谷寺参詣は、宗良親王が出家に寄った
時に見たであろう景色を見たかったからである。
結論から云えば、建造物に関しては殆どが江戸時代以降の
建築物ゆえに、同風景を見たり同じ場所を歩いたりは
困難であった。登廊は上中下の部分に構成されているが、
中下廊は明治27(1894)年の再建だが、上部は長暦3(
1039)年の99間の登廊の一部の可能性がある、、、
(お寺で尋ねたが不明であった)。ただ仏像に関しては
平安時代や鎌倉時代の造立像が安座されていることから、
宗良親王が合掌した仏像かもしれない。御本尊は室町末期
(天文7:1538)年の再造であるが、他の十一面観音像
は鎌倉時代、不動明王立像に地蔵菩薩立像は平安時代の
作である。

ともあれ建物は宗良親王の時代より新しいと思われても、
親王が出家された時代にも安座していた仏像を参詣できた
ことは、少しだが宗良親王をより近くで理解を深めた
ような気がした。

今月03日(日)、奈良県桜井市初瀬の長谷寺にて。

by HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/

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posted by gagaku at 23:48| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする