後醍醐天皇第六皇子の懐良親王の足跡探訪を
おこなってきた。
探訪地は、、、太宰府天満宮、太宰府政庁跡、高良大社、
毘沙門嶽城跡、千光寺(伝・懐良親王御墓)、五万騎塚、
宮ノ陣神社、大保原合戦高卒塔婆、東妙寺。
「日本三大合戦」というと、関ヶ原、川中島、そして
大保原(大原、筑後川)合戦である。
関ヶ原と川中島は大河ドラマなど時代劇や映画でも
取り上げられるが、大保原合戦は殆ど上げられること
無く知名度が低い。
添付写真はその「大保原合戦」の戦死者を葬った
場所に立つ 高卒塔婆への入り口での写真。
今回は福岡空港で添付写真のレンタカーを借りて走った。
3月に熊本へ行ったときは新型(60型)プリウスだったが、
今回は 後期50型であった。しかし本当に燃費が良かった。
高速道(九州道・長崎道など)や一般道を燃費を意識せずに
走ったが、リッター当たり27.5Kmも走った。プリウスでは
20型並みの燃費の良さだ。
話は戻って「大保原(おおほばる)合戦」、、、
正平十四年(1359年)08月06日、菊池武光や新田一族を
主力とする懐良親王南朝軍4万が、少弐頼尚を主力とする
足利賊軍6万と、現在の小郡市を中心とした大保原で
ぶつかった。双方の死傷者は25000人、死者は南朝側で
1930余人、足利賊軍側で4000余人に達したという。
多くの戦死者を葬った塚があちこちにできたというが、
この高卒塔婆も多くの枯れ骨の出土した場所に立てられて
いる。
この合戦で懐良親王も三か所の深手を負ったというから、
本当に激戦だったのだろう。
この合戦を契機に足利賊軍の九州における勢力地盤は
没落し、かわって懐良親王率いる南朝軍が大宰府に進出
して征西府を開府することとなっていく。
添付写真の「高卒塔婆」は陸上自衛隊の基地に隣接して
立っている。見たところ、以前は今では基地内に
なってしまっている敷地内の塚の上に立っていたように
想像する。基地に含まれる時に、現在地に碑を移転した
のではないかと、想像した。
添付写真;高卒塔婆(福岡県小郡市小郡・第五施設団横)
昨日の撮影
by HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/