2019年03月09日

木曽義仲公・松尾芭蕉翁 墓

先日の日曜日、びわ湖ホール(滋賀県大津市)で
ワーグナー作曲 舞台祝典劇『ニーベルンクの指環』
第2日「ジークフリート」を聴く前に、近くの
義仲寺(滋賀県大津市馬場)を参詣した。

境内には同寺に眠る 源木曽義仲公と、義仲を慕い 死後に
義仲公の隣に埋葬されることを望んだ俳諧師の松尾芭蕉翁
の石塔が並んで立っている。
芭蕉翁は大阪の旅窓で逝去されたが、臨終にさいして 木曽塚
(木曽義仲公墳墓)に並び埋葬するように遺言し、子弟が
遺骸を義仲寺に運んで墓を立てたという。

木曽義仲公の墳墓の石塔は 宝篋印塔 であり、芭蕉翁は
自然石を用いた質素なものである。

ところで 木曽義仲公の宝篋印塔は、どうなの? という疑問
が涌く。  まず義仲寺の始まりは、愛妾の巴御前が義仲公
の最期の地に庵を建てて菩提を弔ったのが最初と云われて
いる。どのようなモニュメントが最初に有ったか判らない。
ただ、、、現在立っている宝篋印塔は、当時の石塔では無い。
これは寺社伝にも記載されていないが、宝篋印塔が日本の
石塔の歴史に登場する一番最初が 1230年の京都市右京区
高山寺の石塔が初見で、木曽義仲公が亡くなったのは1184年
なのだから、最初に宝篋印塔が登場する50年ほど前に既に
木曽義仲公は没しているのである。とすれば当然、現在
有る宝篋印塔は、巴御前が(伝)供養のために建立したもの
でないことが判る。
では宝篋印塔がいつの建立かというと、完存の石塔でない
ように思えるから、時代の特定が難しいと思う。石造美術に
関して浅学なので、その点を御了承頂きたいのだが、、、
この宝篋印塔、笠から下の部分、つまり塔身と基礎が他の
石塔を組み合わせたサイボーグ状の所謂「寄せ集め塔」の
ように思える。まず基礎と塔身の間に段形も「反花」も無い。
基礎はまれに無地のものがあるとは云え、場合によったら
基礎は五輪塔からの代用に思える。塔身の方形枠に湾曲が
入った例は珍しく、これも怪しい。ただし笠の隅飾突起の
傾斜や大きさから、鎌倉時代中〜後期の様相とは思える。
恐らく この宝篋印塔は後世に供養塔として建立された石塔
の一部か、あるいは伝承に基づいて 石塔を寄せ集めて立てた
ものと推察する。
芭蕉翁が没した時、この石塔が有ったのか、有ったとして
別物だったのか完存だったのかは、むろん判らない。
ただ木曽義仲の生き様を慕った芭蕉翁が、木曽殿の眠る地
に同じように眠りたいと願い、その願いが叶ったことは
確かである。宝篋印塔という物が云々ではなく、やっぱり
木曽殿最期の地に同じように眠っているということが、大切
なのだと思う。

添付写真上; 源木曽義仲公 宝篋印塔
添付写真下; 松尾芭蕉 墓

by HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/

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posted by gagaku at 22:11| 石造美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする