その一方で、モデルになってくれていた当時学生の女のコ(添付写真)でも竪琴(ビルマの竪琴)が弾けるなど、自国の楽器の演奏力が保持されていたことは、政策的なこともあるのだろうか。自国文化のみを賞賛して異国文化を卑下するとしたら、まったくバランス感覚に欠けているだろう。日本の場合、異国文化のみを優れたものとして鑑賞し、自国文化を蔑ろにしてきたバランス欠如は、現在の音楽教育にもあてはまる。逆に、異国文化を知らずに和の文化のみを称えるのも、井の中の蛙であろう。財政難からオーケストラへの助成金を減らす政策が大阪で考案されているが、他に減らす処があるだろうにと思う。オーケストラの存在はゆとりの象徴でもあるし、文化としての潤いであるからだ。オーケストラも無い社会になったら、それはオーケストラを持つことも出来ない未熟な社会と同等になってしまうことを意味する。大阪の政策から例を挙げたが、むろん和洋のバランス感覚でもって日本の伝統文化の再認識・普及には雅楽・能狂言・歌舞伎に文楽等々など古典芸術のみならず、民間芸能の保護をも願いたいものである。
写真の世界でも、趣味はそうである。最近、拙Blogで1977年に訪れた東ドイツについても記すことがある。その東ドイツではライカレンズなどが製造されていたが、主に輸出用であったろう。私が蒸気機関車を撮影していても、東ドイツ国民の蒸気機関車ファンがカメラを持って写している姿は全く見なかった。社会主義体制の下、写真を趣味として楽しむゆとりが東ドイツ国民あったとは思えない。写真の場合、カメラだけあっても写真趣味は成立しない。街に手軽に寄れる写真屋さんの存在やフィルムの入手が容易な物流など、、、東ドイツにはそれが無かったように思う。その点、蒸気機関車撮影趣味が発展したイギリス、西ドイツや日本は、鉄道もカメラも身近であるというゆとりある社会であったのだ。
(添付写真は、2002年5月、ミャンマーのヤンゴンで撮影;Nikon F5、24−85mm、RHPV)
by HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/
【関連する記事】
女性も竪琴も美しいです。
「ビルマの竪琴」という小説がありますでしょ。
上座部仏教では、僧侶は歌舞音曲は戒律で禁じられています。ビルマで日本人とはいえもし竪琴を
弾いていたら、僧侶ではありえません。
フィクションの世界としても、設定が無茶苦茶です。ミャンマーの僧侶に対して、失礼な話です。
そうなのですか・・・。納得できます。
小説なんだから、何でもアリの世界なんでしょう。
有りえない設定としって読むのは、SFやアクション映画でもみんなフィクションだから問題ないのですが。ただ、ビルマっていうと、日本人の知識としては「ビルマの竪琴」と「アウンサンスーチー」ですから、両方ともフィクションと知って楽しむ分には問題ないと思います。あっ、後者は実在の人物ですけどね(苦笑)。