後醍醐天皇第三皇子である大塔宮護良親王の御首級
と伝わる御神体は、01月15日の宮世話の引き継ぎ式
(初祭)において確認のために本殿から出された時に
拝することができる。
御首級は面長約24cm、横約16cm、右眼開き左眼水晶
またはガラス状の玉が嵌められている。解剖学と人類学
の権威であった鈴木尚教授が昭和52(1977)年の初祭
の際に鑑定されたところ、複顔は寄木細工や粘土で
肉付けしてから漆を塗って行われたということである。
頭頂孔には木の根が入って抜けないが、これは御首級を
一度地中に埋葬後に骨になってから改葬し、首の上に
複顔術を施したものである、とのこと。
偽書である『富士宮下文書』において、護良親王の
御首級は鎌倉から現在の富士吉田市に鎮座する小室
浅間神社に埋葬、後に足利の探求を逃れるために改葬
したと書かれている。だからと云って『富士宮下文書』
が正しく、まさに護良親王の御首級ということには
ならない。『都留市史(都留市発行)』には鈴木尚教授
の昭和55(1980)年の報告が掲載されており、後に
頭骨をレントゲン撮影などなされたゆようだが、いつの
時代であるかまでは鑑定結果が出ていないのである。
ただ、復元加工が剥がれた部分には梵字(種子)が認め
られるとのことで、『市史』では髑髏信仰のあった
真言立川流との関連も述べられている。真言立川流は
江戸時代中期に消滅しているから、もしそうなら江戸時代
初期以前ということになる。偽書研究の原田実氏は『
トンデモニセ天皇の世界』の中で、江戸時代の一揆で
刑死した人を民の為に命を捨てた義民として祀るために
領主を憚って護良親王に偽装したのではないか、と述べて
おられる。ただ氏の考えでは、『富士宮下文書』が世に
登場する明治時代より何百年も前に護良親王の御首級と
して扱っていたことになり、その偽書と辻褄が合わない。
江戸時代中期に地誌として書かれた『甲斐国志』には
石船神社と護良親王を結び付ける由来は全く記載されて
いないようで、やはり御首級=護良親王説を江戸時代
より古く思うのは難しいように思う。
農民の一揆によって命を捨てた義民の御首級が江戸時代
後期に御神体として複顔され、それが明治時代あるいは
大正時代になって『富士宮下文書』と結びつくことで
御首級=護良親王 となったのではないかと思うのだ。
添付写真は石船神社の御本殿が神主さんによって開扉
された状態で、御首級が納められた金庫が見えている。
この金庫が見えた途端、拝殿の拝列者に緊張が漂った。
引継式の様子は、そのうち メインである HP に UP。
by
HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/
posted by gagaku at 21:24|
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