2022年01月29日

年末遠征(15)蕎麦

群馬県、長野県で 南朝の忠臣 新田義貞公と宗良親王の
史蹟を探訪後、白旗神社(山梨県北杜市大泉町西井出字
石堂)で 石塔を参拝・撮影した。

昼食には 白旗神社から約3Kmほどの、御蕎麦屋さんに
寄った。「そば処 いずみ」さんで、着いた時は開店
直前で 一番乗りだった。
食べたのは 天せいろで、御蕎麦は十割蕎麦にした。
口の中で広がる風味が豊かで美味しく、寄って良かった
と思う御蕎麦屋さんだった。
食した後、帰路に就いた。
岡谷(長野県)まで北上してから南下する中央道は降雪で
チェーン規制が出ていたので、万が一の通行止めの危険性
を回避するルートを選んだ。
すなわち 長坂ICから中央道を双葉JCT(山梨県)まで来て
中部横断道路を新清水JCTまで南下、新東名に入って帰った。

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2022年01月27日

年末遠征(14)武蔵野合戦供養塔

昨日の拙ブログに於いて、白旗神社(山梨県北杜市)
の石塔を UP した。そちらは自然石を積み上げた
層塔であったが、こちらの添付写真は加工した石で
造塔した石塔だ。

南朝の 宗良親王の歌碑がある 熊野皇大神社
(長野県北佐久郡軽井沢町峠)境内には、添付写真
層塔がある。
層の数は6層であるが、約200年前の浅間山大噴火の
降灰などの影響で倒れて、一層が行方不明だという。
恐らく上から二段目の屋根(笠)が紛失したので
あろうから、原型は七重の層塔だったはずだ。ついで
ながら加えると、相輪も不明のようだ。
この石塔の基礎には銘文が刻まれており、読もうと
思ったが擦れたり欠落などで、まともに字が判読でき
なかった。 説明板によると、「武蔵野合戦」で碓氷峠
で亡くなった人の「二世安楽(この世とあの世の両方
での幸せ)」を願って建てられたという。銘文の判読
なのだろうが、願主は誰だろうか、、、。
武蔵野合戦の時に宗良親王が碓氷峠を越えたという
ことは、今月20日の 拙ブログに記した。
しかし「武蔵野合戦」において碓氷峠でどの程度の合戦
が有ったか、浅学ゆえに調べられなかった。
武蔵野合戦」は南北朝時代の観応の擾乱・正平の一統
直後に発生した合戦で、正平7年/文和元年(1352年)
閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・
埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏の軍勢と、
宗良親王を奉じた新田義興・新田義宗軍勢との間で
行われた一連の合戦である。この時、北朝は廃されて
いたから、南朝内部の分裂合戦である。

熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町峠)

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2022年01月26日

年末遠征(13)白旗神社

年末に 南朝の忠臣 新田義貞公と宗良親王の史跡を、
群馬県と長野県で探訪した。

復路、上信越道の佐久方面から八ヶ岳南麓を国道141号線
を通って、北杜市へ出た。

北杜市の神社で、参拝したい処が有ったのだ。
添付写真の「白旗神社」である(この添付写真は正面
アングルだが、背面アングルを一枚、以前に UP 済)。

神社というイメージにある手水舎、拝殿、本殿などが無い。
石組みされた層塔である石塔2基は 基壇を含めた高さが
約2mで、その前には小さな祠がある。祠には 宝暦三(1753)
年と刻されているが、石塔とセットで同時期に祀られたか
どうかは不明だ。奈良時代の創塔とも云われているようだが、
詳細は不明だ。石を削り出して笠を造形せず、塔身も
自然石だから風流さは無いが、力強く祈りの世界が伝わってくる。
御祭神は 武甕槌命、倉稲魂命、天宇須女命 と云う事だが、
御祭神が 三柱 なのに石塔は二基である。
どちらがどの御祭神というのではなく、二基で 三柱を
祀るということなのだろうか、、、むしろ 三柱は後付で、
二基は 陰陽 だから、『記紀』の神々とは関係無く地霊や
密教系の仏塔なのかもしれない。
詳細が分からないとは、神秘的である。

一通り撮影して帰ろうとしたら  木々の間から 二基に
太陽が当たったので、撮り直しを行った。
石塔に光が当たった、神々しいライティングである。

白旗神社  山梨県北杜市大泉町西井出字石堂

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2022年01月25日

年末遠征(12)

南朝の忠臣 新田義貞公 と 宗良親王の 史跡巡りを、
群馬県と長野県でおこなった。

往路は 中央道の岡谷IC で出て、八ヶ岳北麓を通る
国道142号線で中部横断自動車道から上信越道に入った。
復路は 中部横断自動車道を出てから、JR 小海線に
沿う形の 国道141号線で 、山梨県北杜市へ抜けた。

添付写真上は 上信越道の、佐久平PA にて。

添付写真下は、国道141号線の長野県小海町にて。
サミットの野辺山に向かって、一方的な上り坂だ。
気温マイナス8℃だから、積雪は僅かだが雪の下に
アイスバーンが隠れている恐れがある。運転は慎重だ。

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2022年01月24日

メロンパン石 ( 益田岩船 )

昨日 UP した 「名草巨石群」に続いて、巨石の写真。
タイトルの「メロンパン石」は、勝手に拙者が名付けた
のだが、似てる。 って云うか パンなら美味しそうだが、
巨石にこの格子が穿たれているのは、不気味で気持ち悪い。

奈良県橿原市白橿の貝吹山の東峰山中に鎮座するこの
巨石、「益田岩船」と呼ばれている。

Wiki によると
「東西約11m、南北約8m、高さ約4.7m(北側)の台形状の
硬質の石英閃緑岩で東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。
上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られている。
この溝に1辺1.6m深さ1.3mの方形の穴が、1.4mの間隔を
開けて二つくり抜かれている。
岩の重さは約160tから500〜600tなど諸説あり、かつては他
から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から
今の場所にあったと考えられている。また、下部には深さ
10センチほどの格子状の溝が彫られているが、これは表面を
平らにするための加工法が途中までされたものと見られる。」
(以上)

穴の加工法や尺に古墳時代の様式が見られることから、7世紀
ころの作と思われているが、何のための加工かは分かっていない。
占星術の観測台説、火葬墳墓説、そして有力なのは横穴式
石槨説である。ただし横穴式石槨説の加工途中で石に亀裂が
見つかったために、完成せずに放棄したというのだ。
横穴式石槨説だとしても、この格子は何なんだろう?

添付写真上は縦溝30条、横溝7状の格子状部分の UP であるが、
西面のから見た二つの成形された綺麗な凹みは、またの時に
HP に UP 予定。

この巨石には 添付写真下の路から5〜7分、山道を
歩いて登る。
路には その巨石の 絵が描かれていた
添付写真下は、妻がスマホで撮影してくれた写真)。

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2022年01月23日

年末遠征(11)名草巨石群

年末、南朝の忠臣 新田義貞公関連史跡を探訪に訪れた
群馬県太田市から足を延ばし、栃木県足利市名草上町の
「名草巨石群」を参拝してきた。
車両進入禁止(って云うか無理)なので、釣り堀も有る
広場に駐車し、一の鳥居をくぐって上り坂の参道を15分も
歩く。すると添付写真の巨石群に出る。左右の巨石のうち
右側の巨石の上には社殿が建つ。名草厳島神社である。
左側の巨石は御供石と名がついており、岩の間を「胎内
くぐり」ができる。と云うか、できた。豪雨で産道が
埋もれているようで、立ち入り禁止になっているのが
惜しい。神社の載る巨石と産道のある巨石は、細い橋が
掛けられている。社殿と胎内くぐりの岩、この周囲一帯
が神聖な神域として修行の場であったのだろう。

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2022年01月21日

先行予約 チケット到着

びわ湖ホール友の会で、先行予約したチケットが届いた。

リヒャルト・ワーグナー作曲
舞台神聖祝典劇【パルジファル】

びわ湖ホール(滋賀県大津市)
開演 13時00分 〜 終演予定 19時00分
(びわ湖ホール プロデュ―スオペラ)
3月の公演だから、もうオミクロンもピークアウト
しているだろう。 
しかし外来ソリストが来日できないと、ソリストが
変更される可能性がある。

最近、その筋からの報道も錯綜している、、、

WHO緊急委員会「渡航制限は効果なし 解除・緩和求める」 
        (昨日のFNNプライムオンライン)
尾身氏「ステイホーム必要ない  人流抑制より人数制限」
   (一昨日の日経新聞WEB)
小池氏「外出自粛呼びかけ 行動制限要請」
    (一昨日の毎日新聞WEB)
WHO と 尾身氏に賛同・・・
ステイホーム(日本滞在)の渡航制限解除を 早よ〜して

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2022年01月20日

年末遠征(10)碓氷峠

「正平の一統(正平6、1351、観応2)」で、自らが擁立した
北朝を捨て、南朝に帰順した逆賊足利尊氏も、弟の直義を誅する
ための方便の南朝帰順だった。直義を誅したら、もはや尊氏に
南朝に帰順する意味も無くなったのである。同様に南朝側
としても尊氏が鎌倉に滞在中に京に兵を進めることは、北朝が
「正平の一統」で消滅した以上、大義名分が立つ状況になっていた。
正平7(1352、文和元年)02月06日、大鹿村大河原
(現・長野県)に滞在していた 宗良親王(後醍醐天皇第四または
第二皇子)が征夷大将軍に任じられた。尊氏の将軍を剥奪する
ことを意味する。
征夷大将軍となった宗良親王は上野国の新田義興らと連携する
形で挙兵し、諏訪の軍勢を率いて武蔵国を、そして鎌倉を目指した。
宗良親王は同年02月16日、碓氷峠に立っていた。

現在、長野県北佐久郡軽井沢町峠に鎮座する、熊野皇大神社の社前
には、宗良親王の歌碑が立っている。

ところで この 熊野皇大神社の参道、および拝殿の梁にも
長野県 / 群馬県の表示がある。 そうなのだ、神社のど真ん中に
県境が有るのだ。熊野皇大神社は 長野県での名前で、群馬県では
熊野神社という名前である。本殿は一つだが社務所は群馬県側、
長野県側と、両方にある。県境が先か神社が先か?と云えば、
むろん神社が先である。行政区画で勝手に分けられて、神様も
さぞや驚きのことだろう。
思えば県境に跨って建つ住宅だって無数に有るだろうが、どちらの
県に属するかは行政の判断なのだろうか。

添付写真;南朝・宗良親王の史跡の一つである、熊野皇大神社
     (軽井沢町峠)

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2022年01月19日

年末遠征(9)番外〜鎌倉攻め(番外)六国峠展望U.

鎌倉(神奈川県)から見た富士山
____________________________

昨年末、群馬県太田市へ 南朝の忠臣 新田義貞公関連の
史跡巡りに出かけた。

この記事は、番外として鎌倉攻め、さらにその番外
として 鎌倉の「六国峠」からの展望。
新田軍が陥落させた、鎌倉幕府の町の眺めは先日 UP した。
ほぼ同じ地点から西の方面に、富士が見える。広がる
町並みは方角的に藤沢市だろうか。

ところで先週の NHK【歴史探偵】(毎週水曜日22時30分)
『武士の都・鎌倉』において、鎌倉は攻撃防御力が強いのか
弱いのか、賛否両論だと述べられていた。 番組内では
「鎌倉城」とも呼ぶような周囲の山道を切り通しとして
防御力を高めており 尚且つ海にも守られていた。ゆえに
鎌倉幕府倒幕を狙った新田軍は容易に鎌倉に攻め込むこと
ができなかった。という、防御力の高さに重点を置いていた。
一方、何が弱いのかは番組内で述べられなかったが、実は
後醍醐天皇時代の中先代の乱、後村上天皇時代の観応の
擾乱や、新田義興・宗良親王らと逆賊尊氏との武蔵野合戦
においても鎌倉は陥落している。もっとも両方とも、
新田義貞公による北条鎌倉幕府打倒時のように鎌倉守備軍は
まともに鎌倉を防御せずに、鎌倉から討って出ている。
新田義興公(新田義貞公の次男)が武蔵へ侵攻した時、逆賊
足利尊氏は「鎌倉が陥落したら味方の士気が落ちる」との
理由から、鎌倉を出て新田皇軍を迎え撃っている。
鎌倉の切り通しは少人数で大軍を防ぐに有利に出来ているが、
七口のどこから攻められても耐えられるように兵を配分
できなかったのかもしれない。あるいは、、、鎌倉の防御力
が実は低いとの判断が有ったのかもしれない。
そのように、難攻不落であったのは新田義貞公が攻めた時
だけで、容易に侵入できた中先代の乱、武蔵野合戦の
例で考えれば、鎌倉は防御に弱かったということになる。

富士が見えているが、箱根方面は坂東の防御線として、度々
戦場となっている。天気さえよければ、狼煙の伝達で戦況が
速やかに鎌倉に伝わっていたことだろう。

添付写真;鎌倉「六国峠」(通称、天園ハイキングコース、
またの名を「鎌倉アルプス」)にて 2009年12月06日 撮影

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2022年01月18日

新幹線 雪景色

新田義貞公について、今日は一服。
代わりに 雪景色の新幹線。

今月04日 撮影、岐阜羽島〜米原

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2022年01月17日

年末遠征(9)番外〜鎌倉攻め(番外)六国峠展望T.

昨年末、群馬県太田市へ 南朝の忠臣 新田義貞公関連の
史跡巡りに出かけた。

この記事は、番外として鎌倉攻め、さらにその番外
として「六国峠」からの鎌倉の展望。
新田軍が陥落させた、鎌倉幕府の町が眼下に広がる。

「六国峠」と云うより「天園ハイキングコース」と
呼んだ方が、分かり易いかもしれない。
瑞泉寺奥から山中に入り、建長寺裏までの起伏に
富んだ 全長約5Kmの尾根道のハイキングコースが有る。
「六国峠」と云うのは、武蔵、相模、上総、安房、甲斐、
伊豆の六か国が眺められるからである
この添付写真の展望は、今年の NHK大河ドラマ【鎌倉殿の
十三人】
初回の紀行でも、チラリと映った場所だ。
このハイキングコースは、3回ほど歩いたことがある。
ハイキングを楽しむのではなく、そのコースに沿うように
「やぐら(鎌倉に多い中世横穴式墳墓)」の探索に歩いた
のである。つまり、この鎌倉背後の山中は死者葬送の場所
だったのだ。眼下に広がる鎌倉の町は、 頼朝〜北条〜新田
〜足利と坂東武者たちの生によって成り立ち、そしてこの
ハイキングコースは死によって成り立っていたのだ。
添付写真右上方に、新田義貞軍が海中突破した稲村ケ崎
方面が見えている。

尚、現在は令和元年の豪雨で道が崩壊し、一部区間が
通行止めになっているようだ。
山道を歩くので、ヒールの高い靴やサンダルでは無理で
ある。トレッキングシューズなどで歩くのが望ましい。

鎌倉は 1982〜1984年の間に殆どの寺社、切り通し、やぐら
を探訪したが、現在の視点でまた歩いてみたいものだ。

添付写真;2009年12月06日 撮影、神奈川県鎌倉市
     町並みの向こうに、太平洋が広がっている。

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2022年01月15日

年末遠征(9)番外〜鎌倉攻め(番外)釈迦堂口切り通し

昨年末、群馬県太田市へ 南朝の忠臣 新田義貞公関連の
史跡巡りに出かけた。
この記事は、番外として鎌倉攻め、さらにその番外
として、切り通し(特に釈迦堂口)について

元弘3(1333)年05月、足利高氏が六波羅探題を攻め、
新田義貞が鎌倉を攻めることで鎌倉幕府倒幕が成った。

頼朝の鎌倉要害化および商業都市化の両面から、鎌倉の
三方の山に「鎌倉七口(七切り通し)」と呼ぶ道を開削した。
極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ガ谷坂、巨福呂坂、朝比奈坂、
名越坂である。これらの坂道を通って鎌倉に入るのだが、
鎌倉幕府を攻略した新田軍はこれら全てに兵を向けたのでは
なかった。極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂に兵を分散して攻め
掛っていたが突破することが出来ず、奇策として稲村ケ崎の
海中突破案を奇跡を起こすことで成功することができた。
「エクマン輸送」という気象上の奇跡が顕れたことは、先日の
NHK番組【歴史探偵】によるところである。

ところで添付写真は「釈迦堂口切り通し」と呼ばれる壮大な
景観の洞門で、杉本寺方面から名越方面へと南北に山を貫く
道が通っている。 洞門の上部には凹みが有って、やぐら
(鎌倉に多い中世横穴式墳墓)が扉を失って開口している。
つまり元々は中世葬送の場所に明治期になって隧道を穿って
切り通しとしたようだ。中世期の洞門でもないし鎌倉府外と
の切り通しでもないから、「鎌倉七口」には入っていない。
残念ながら新田軍が突破した隧道でもないのだ。
ところでこの「釈迦堂口切り通し」は現在、崩落落石のため
フェンスで通行止めになっているようだ。
昨年の WEBニュースによると、コンクリートを吹き付けて
落石予防のネットを張って通行が可能になるようにするらしい。
剥き出しの岩盤が荒々しく美しいのだが、野暮ったくコンクリート
で固めた姿になるのは、どうなのか、、、。
1977(昭和52)年から通行止めと WEBニュースに書いてあった
が、私が添付写真を写したのは 1983(昭和58)年、普通に通行
できたのだが。

添付写真1983年04月 撮影 神奈川県鎌倉市・釈迦堂口

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2022年01月14日

年末遠征(8)番外 〜 1984年

昨年末に 、群馬県太田市で 南朝の忠臣である 新田義貞公
所縁の地を巡ってきた。

東京在住時代の1984(昭和59)年にも訪れているから、
再訪である。
その時のアルバムが添付写真上下だ。

電車の写真が1枚 あったが 東武鉄道伊勢崎線の急行
「りょうもう」なので、東京から電車で出かけたようだ。
しかし太田市内の史跡は広い範囲に点在しているが、
どのような手段で移動したか全く覚えていない。
レンタカーだったのか、、。暑いさなかに徒歩で周れる
範囲ではない。バスはあり得ない。
太田駅前が写った写真が有る。北口だろうか。
今回訪れた景色とは、全く違っている。「太平記の里」
の看板が、義貞公が町の有名人であることを物語っている。
ポケットアルバムには、新田義貞公の史跡写真が無造作に
入れられているだけで、詳細が書いてないのが失敗だ。

当時のアルバム、、、
1984(昭和59)年04月29日 首塚(京都 滝口寺)
 同 07月29日 大光院、金龍寺、金山城、生品神社、
       反町館跡、円福寺(群馬県太田市)
 同 09月02日 稲村ケ崎(神奈川県鎌倉市)
 同 09月30日 九品寺(鎌倉市)

38年経っても 同じことをやっているから、進歩して
いない、、、
(汗)。

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2022年01月13日

年末遠征(7)番外〜鎌倉攻め

元弘3(1333)年05月、足利高氏が六波羅探題を攻め、
新田義貞が鎌倉を攻めることで鎌倉幕府倒幕が成った。

添付写真上は 新田義貞公生誕の地である、現・群馬県
太田市世良田の 新田荘歴史資料館 の前に立つ、義貞公の
銅像。 鎌倉攻めの時に稲村ケ崎で黄金の剣を海に投じ、
龍神に祈ったら海水が引いて断崖絶壁直下に干潟が現れ、
新田軍は鎌倉へ突入できた、という有名なシーンである。
添付写真下は、38年前に新田義貞公の史跡巡りで稲村ケ崎
を訪れた時に撮影した写真である。1984年09月02日、、、
波が高いが 台風でも接近していたのかもしれないが、
覚えていない。

ところで昨夜22時30分〜23時15分、NHK【歴史探偵】
という番組が面白かった。
大河ドラマに合わせた内容だが、「武士の都・鎌倉」
というタイトルであった。
頼朝が鎌倉に幕府を開府した際、三方を山そして海に
囲まれた鎌倉を商業の都市としても発展させるために
山の道を七口開通させたのだが、その切り通しの道
には軍事的にも守り易くする工夫が施されていた、と
いうのだ。つまり守り易く攻めにくい城塞化する工夫が
されたというのだ。 
実際に現存する切り通しで合戦模様を再現したり AI を
使ったシュミレーションで再現しても、攻めるのがいかに
困難であったか、立証していた。
しかし番組では、その「難攻不落の鎌倉城」を攻め落とした
新田義貞公にも脚光を当てていたのが、素晴らしかった。
切り通しを通って鎌倉府内に突入するのが困難とみた
新田義貞公が海水を引かせる儀式を行ったのが、銅像の
姿である。新田義貞公がなぜ稲村ケ崎を迂回路として
鎌倉へ突入できたかは、大ミステリーなのだ。それに対して
番組では、初めて聞く説を紹介されていた。「エクマン輸送」
という。北西の強い風が吹くと、その直角の方向に水が
引いて行くのが「エクマン輸送」と云うそうだ。強風が
吹いていたのこは【太平記】にも記載されているが、その
ような条件で「エクマン輸送」で海水が引いて、稲村ケ崎の
崖下に軍馬や徒歩で歩行できる干潟が現れたというのだ。
海水が引いて行くから、海上に陣取る北条の軍船も沖に
流されて、弓矢の射程から外れたということだ。
新田義貞公が、北西の強風で「エクマン輸送」が起こること
を知っていたのか、、、おそらく海の無い現・群馬県出身の
義貞公が知っていたとは思えない。地元の漁師にでも、
稲村ケ崎を徒歩で渡海できるか訊ねたら、強風の大潮だ
から夜間に潮が引いて陸地が現れる可能性が有る、とでも
教えられたのだろう。
その時を待ち、龍神に祈る儀式を家臣団の前で行ったら
潮が引き始めた、、、それを見た将兵らは、新田義貞公の
力に驚愕して畏怖したことだろう。
(ただ、、、もし「エクマン輸送」なら、現代においても
同様の条件下で稲村ケ崎の海水が引いて干潟が現れる
ということが起こり得るのだが、どうだろう。何万分の一
くらいの奇跡が義貞公の鎌倉攻めの時に起こったのなら、
まさに 天を味方に付けた、とはこのことだろう。)

添付写真上;2021年12月30日 群馬県太田市 新田荘歴史資料館
添付写真下;1984年09月02日 神奈川県鎌倉市 稲村ケ崎

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2022年01月12日

この本は、、、 南北朝

今月09日(日)の拙ブログにおいて、
「この本は面白い」というタイトルで 書店で入手した
【 乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで 】
秦野祐介(氏)著、東京堂出版、2020年08月10日初版
¥2,500+税、 
について記した。皇統を巡る争いについて、これまで
知らなかった点を開眼させてくれる興味深い本であった。
書店で手に取って、その本に出会ったのだ。
書店で出会うというこれまで当たり前の本との出会い
とは別に、ネット上での書籍との出会いということも
今日ではある。 内容を見ないで入手するのだが、この
機会を逃したらもう出会えないと思う古本は、定価以上の
値が付いていても入手する。そのように出会った本が
送られてきた (添付写真
南北朝実相史 富士“隠れ南朝”史
吾郷清彦・加茂喜三(両氏)著、富士地方史料調査会
1987年07月05日初版、¥2,500+税
著者の名前でニヤリとされる人がいらっしゃるだろう。
吾郷氏、、、そう、「古史古伝」の研究家である。
タイトルと著者を見ると、いかにも ]ファイル と分かる。
「古史古伝」のいわゆる“偽書” と考えられる本に、
『富士宮下文書』がある。この書物の中では、かつて
富士山麓に「富士高天原王朝」という不老長寿の国が
存在したと説く。その文書の出所である宮下家の古文書・
古記録には神代から南北朝までの記録が含まれているという。
長慶天皇も行幸したその富士山麓には、「隠れ南朝」という
南朝勢力の隠れた本営が有ったという。この入手した本では、
「三河南朝」に関して、多くが記載されている。
「三河南朝」とは吉野朝(南朝)は足利を欺く副統であって、
三河に存在した南朝が正統である、と説く。
「三河南朝」に関する本は5〜6冊持っているが、今回
入手した本での吾郷氏の記述は、読みやすくまとまっている。

とは云え、、、最近、読書速度が落ちてきているし、あちこち
本を浮気するから途中で止まった本ばかりが増えていく状態だ。
Yahoo ! のニュースなどでは、この「コロナ騒動」も本年には
収束するという記事も散見されるようになってきた。
しかしながら「スティホーム(日本国内幽閉)」を強いられる
期間、特に今年は 「偽書の史跡巡り」をしようかと思っている。

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2022年01月10日

南朝 行宮 U. UP

拙 HP【舞!組曲】の
『日本!』 No.109 に
「南朝の行宮 II.」〜
後村上天皇(其の二)、長慶天皇、後亀山天皇
を 写真17枚で UP 。


当ブログ添付写真は 季節感外れているが、
「正平の一統(正平6、1351、観応2年)」に
伴い、その翌年2月に南朝に拉致された元北朝の
上皇・天皇・親王らが幽閉された 河内金剛寺観蔵院
から眺めた桜、障子。

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2022年01月09日

この本は面白い 南北朝

昨日 買った本が本当に面白い。
通販ではなく 書店で手にして内容を見て買うって、
楽しいものだ。 買った本は 添付写真左側の

乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで
秦野祐介(氏)著、東京堂出版、2020年08月10日初版
¥2,500+税、 である。

これまで南北朝というと、大覚寺統VS持明院統 あるいは
大覚寺統VS足利幕府 というような図式で捉えていた。
しかし南北朝期も後半になると北朝(持明院統)にとって
大覚寺統(南朝:吉野朝)は、大きな脅威では無く
なっていた。皇統は南北ともに細かく分かれており、
一枚岩のように思われている持明院統内部においても
皇統を巡る抗争の連続で、その抗争にあけくれる宮廷内
はおどろおどろしい生臭く、現代人が思うような菊の
カーテンの中の高尚な世界では無かったのだ。
明徳の和約(南北朝合一)を遵守しなかったのは幕府で
はなく、持明院統が受け入れがたい和約で北朝サイドから
反故にされたという点には、目からウロコでもっともと
納得である。
足利第6代将軍義教の時に南朝断絶政策がとられるが、この
件に関しても北朝内の皇統争いで切り捨ての対象となった
北朝・後小松 後光厳皇統を処分するあおりを食らった、
とい解釈も興味深い。
同書は南北朝期から後南朝ににかけての天皇のうち、特に
後花園天皇の抗争姿勢に脚光を当てて描いていく、、、。
興味深い視点からの記述が多く、従来の観点を変えさせて
くれるような書籍で、Get して良かったと思う。通販ではなく
書店でタイトルを眺めて本棚から出して目を通し買うって、
やっぱ出会いだね。
今日、明日で続きを読んでみたいと思う。

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posted by gagaku at 19:10| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月07日

年末遠征(6)長慶天皇

年末、群馬県太田市で 南朝の忠臣 新田義貞公の関連史跡
を巡ったが、南朝 第三代天皇である 長慶天皇(日本天皇
第98代)所縁と云うお寺も参詣した。

道路に面した駐車場に、添付写真のような大きな看板、、
千利休先祖菩提の寺 長慶天皇ゆかりの寺』。
太田市の HP には、下記の記載が有る (下に コピペで)

「長慶寺は新田義重の孫、田中五郎義清が高崎の里見から
新田に来て、この地(田村村)をおさめ〜その十数代後の
田中千阿弥(千 利休の祖父)が戦で新田から大阪に行き〜
戦に敗れて堺市で商人に成った。その孫が田中与四郎
(改名して、千 利休)である。その利休の先祖である田中
五郎義清の墓が長慶寺にある(千 利休 先祖 菩提の墓)

南北朝時代、長慶天皇が北朝から身を護る為、新田一族を
頼って、この地に来て、得阿弥と云う名に改名して長慶寺に
住む
。(その後の消息は不明)」

(以上)

全国に70は有るという 長慶天皇の御陵について直近では、
昨年10月27日の 当ブログに於いて、富山県南砺市安吾の
安吾寺の「長慶天皇御陵」を UP している

そして、今回 参詣した太田市の長慶寺にも、長慶天皇の
石塔が存在している。
しかし、、、やはり「エリア51」同等の Xファイルだろう。
長慶天皇が後亀山天皇に1383年に譲位してから、1394年に
崩御されるまでの11年間の動向が不明で謎に満ちているため、
その間に全国各地の南朝勢力の土地を督励に訪れていた、
という説から各地に長慶天皇所縁の地が出来上がったのだ。
しかし、、、その期間、新田荘は新田嫡流が散り散りになり、
長慶天皇を迎え入れる程の勢力基盤は失われていたと思われる。
「ゆかり」の話は Xファイル だからこそ面白いのだ。
ただ言えるのは、信義を貫き戦い続けた新田一族と南朝贔屓
の土地柄から生まれた伝承であるということだ。その逸話の
生まれたバックボーンこそ、大切にしたいものだ。

添付写真;長慶寺(群馬県太田市新田上田中町甲)駐車場にて。

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2022年01月06日

年末遠征(5)宿泊ホテル

群馬県太田市へ 南朝の忠臣 新田義貞公の史跡巡りに
行った際、宿泊したのは 添付写真の
ホテル ルートイン Grand 太田駅前』。
ルートインの名前に「Grand 」が付いて、普及型より
若干 サービスにプラス@ が加わったようだ。
大浴場には露天風呂が付属し、朝食バイキングの品数も
普及型ルートインに比べて かなり多かった。食べるものが
無くて選択に困るのではなく、食べたい種類が多くて
選択に困る状態だった。
特にこのホテルは2年ちょっと前の 2019年06月11日(火)
にオープンしたばかりで、新しい。フロントの対応も明るく
親切で、感じがイイ。
部屋は禁煙シングルを予約してあったのだが、その料金で
なぜか禁煙ツインの部屋だった。予約調整の都合だろう。
場所は 東武伊勢崎線、太田駅南口 徒歩1分の場所だ。
難点は駐車場の台数が少ないことだ。ホテル付属の
駐車場は20台ほどしか駐車できず満車となっていたので、
最初の日は 近隣駐車場(ホテル駐車場の隣)に駐車した。

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2022年01月05日

年末遠征(4)自販機

新田義貞の出生地である 群馬県太田市で見つけた、
義貞公の絵が付いた自販機。
残念ながら、売られているのは普通のラベルの
飲料だった。

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posted by gagaku at 20:44| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする